なぜ社会は良くならないのか? – アラン 幸福論の名言から考える

投稿者: | 2023年8月17日

アラン 幸福論 (岩波文庫)を読んで理想的な社会について考えたことを、つらつらと書いていきます。

もっとも賢い人がもっとも巧みに自分をだますことが多い。

もっとも賢い人が
もっとも巧みに自分をだますことが多い。
自分の大げさな言い方はあとをひき、
道理にみえるからである。

個人的にかなりずっしりときた言葉でした。

自分で自分を騙すというのは、昔から言われていることで、よくあるのは犯罪絡みですかね。

自分は知らなかったとか、そういう認識は無かったとか、まあ表現はいろいろとあると思いますが、多くの場合、自分自身を騙している、または記憶自分で書き換えようとしていることがほとんどですよね。

パワハラなんて事実は無いといって、証拠が出てくると急に手のひらを返すのもそうかな。

悪いことだけじゃなくて、すっぱい葡萄の童話もそうですね。食べられなかった葡萄をあれは酸っぱい葡萄だと思って諦める話で、それは自分自身を騙して、諦めさせているんだろうなと思います。

まあ、何にせよ、人間は自分自身を騙そうとする生き物、正確には騙すことができる生き物なのかなって思います。

なぜ社会は良くならないのか?

個人的に中学生から高校にかけて、時間が結構あって、1人でいろいろと思索することが多かったです。

その時に考えていたことの1つに、「なぜ社会は良くならないのか?」というのがあります。

その疑問の出発点は「世界には頭の良い人がたくさん存在しているのに何故問題を解決できないのだろう?」というものです。

カオス理論、バタフライ効果、多世界解釈など、未来を予測するのが難しい要素はたくさんあります。

なので未来の問題を事前に予測して解決することは難しいでしょう。

しかし、起きている事象については、解決できる物事が多いように個人的には思っています。

ではなぜ解決できないのか?

個人的にはまさにアランの「もっとも賢い人がもっとも巧みに自分をだますことが多い」という言葉が、その本質なんじゃないかなと感じましたし、そう思っています。

現代が抱える問題はさまざまありますが、わかりやすい例で言えば、貧富の差が1つあるかなと。

なぜ心臓病の子どもを救うのが難しいのだろう

例えば、心臓病の子どもがいて手術費用が1,000万かかるのだけれど、その家庭では1,000万を用意するのが難しいとしましょう。

一方で、資産を100億持っている人がいます。

これは個人的にですが、自分が100億持っていたら1000万はすぐ出してしまいそうです。

でも今の社会を見ると、そういう事例はとても少ないように感じます。

アメリカでは慈善の文化というか、慈善をすることで恨みを買わないようにしているのですが、そのような活動が結構報道されますよね。

日本でもそういう事例は結構あるにはあるのですが、一方で苦しんでいる人達も多いのが事実です。

それを単純に能力主義、成果主義で片付けてしまうのは簡単なのですが、果たしてそれは成熟した社会なのか?と考えると、個人的には違うんじゃないかなと。

皆さんはどう考えますか?

100億持っていたとして、それを誰か困っている人に与えることは嫌でしょうか?

人によるのかもしれませんね。

ただ、これは自分の勝手な考えですが、たぶんお金持ちの人も本当は苦しんでいる人を助けたいって思ってるんじゃないかなと。

じゃあ、何で助けないのか?というと、それがまさに自分を騙しているからなんじゃないかなって、自分は思っています。

たぶん、お金持ちの人に話を聞けば、苦しんでいる人にお金を無償であげることは良くないという理由が、様々出てくるでしょう。いろいろな論理的言説があると思います。

でもそれらは、本当は自分を騙しているだけなんじゃないかなって。

100年後の人類はどう考えるのか?

自分がいろいろと考える時に使う思考法に「よく使っているのは100年後の人類はどう考えるのか?」というのがあります。

中学生の頃からやっていて、何か物事を判断する際に、100年後の人類だったら、この事象をどう考えるだろう?という視点で考える思考法です。

前述の心臓病の子どもに1000万をあげる話について考えてみましょう。

100年後の人類社会は今よりも成熟していて、おそらく今よりも多くの人が豊かな暮らしをして幸せになっていると思います。

そこには平等があり、公平があり、諍いがほとんど無い社会なんじゃないかなと。困っている人がいたら普通に助けるという社会のように思います。

それは人間が本来持っている、感情というよりも、本能に近い部分なのかなと。遺伝子を繋いでいく生命体としての役割という意味で。

そう考えれば、100億持っていたら、たぶん無償で助けるんじゃないでしょうか。

ただ、100年後の社会ではもしかすると貧富の差というのは無いかもしれません。

人々が自分の好きなことをして、自分の好きなように生きる社会になっているように思います。

きっと、心臓病の患者には政府がお金を出して、助けてあげるのではないかなという気もしますね。

思い描く未来社会によっていろいろと考えはあると思いますが、少なくとも1つだけ言えることは、心臓病の子どもを見捨てるという選択肢は無いだろうし、助けるための仕組みができあがっていることは間違いないと思います。

であるならば、今それを実現するのは、駄目なのかなって個人的には思うんですよね。

人の欲望を制御するのが難しいわけ

理想的な社会では、心臓病の子どもを助けるのが当然という考えに異論は無いように思います。

しかし、現実社会ではそうではありません。なぜ、理想的な社会を作るのが難しいのでしょうか。

その根源にあるのは、人間の欲望といえるでしょう。

お金が欲しい、良い暮らしがしたい、かっこいい or かわいい人と付き合いたい、エロいことがしたい、旨いものが食いたい、豪邸に住みたい・・・なんでも良いですが、人間というのは誰しも欲望を持っています。

自分の場合は、今の無職生活を少しでも長く続けて、できればそのまま死にたいことかな。

まあ、人それぞれですね。

で、その欲望はどこから来るか?と言えば、個人的には本能だと思っています。遺伝子を繋いでいく生命体としての本能、利己的遺伝子からすれば器でしかないですけど、それはあまりにも無味乾燥としたものなので生命体としておきましょう。

遺伝子を繋いでいくためには、自身の遺伝子の有用性を示す必要があります。その方法が、生きる力を示すことであり、そしてそれが欲望の根源なんだろうなと。

お金が欲しいのもそうですし、良い暮らしがしたい、かっこいい or かわいい人と付き合いたい、エロいことがしたい、旨いものが食いたい、豪邸に住みたいなど、すべて間接的に自身の遺伝子の有用性を証明するための行動と言えるのかなと。

自身の遺伝子の有用性の証明というのは、他者からの評価と言い換えても良いかもしれません。

野生動物だった頃は単純に生き残ることが自身の遺伝子の有用性の証明でしたが、社会性を持ったことによって人間はかなり多様な方法で自身の遺伝子の有用性を証明することを考えました。そして、そのどれもが他者との関わりによって生まれる、相対的なものと言えます。

なぜなら、単なる自己満足で良いのなら、ひっそりと隠者として過ごせば良いからです。

というか、そもそも隠者として知られることが自体も自身の遺伝子の有用性を証明することになるので、真の意味で自身の遺伝子の有用性から脱する、つまり欲望から脱するなら、誰にも知られず、ひっそりと死ぬことしか無いのかなと。

誰にも知られないということは、そもそも存在していないに等しいので、やはりそんな人は存在しないと言っても良いでしょう。

つまり、私達が存在すること自体が本能が望んでいることあり、そしてそれが欲望でもあるわけです。

だから、どうやっても欲望は消すことができないのかなと個人的には考えています。

例え覚者だったとしても、そこには覚者として他者から認められるという欲望があるという話。これももしかすると自身を騙していることなのかもしませんね。

欲望をさらけ出せる社会

結局何が言いたかったかというと、人間はどうやっても本能から逃れることができないという話。

そして、頭の良い人はそれを巧みに騙しているんだろうなと個人的には思っています。

で、それが社会が良くならない理由なんじゃないかなと。

じゃあどうするのか?って話なんですけど、個人的にはまず欲望を認めることが重要なんじゃないかなって。

巧みな言説でそれを隠すんじゃなくて、自分の欲望をちゃんと出せるような社会が良いのかなって。

で、欲望をテーブルにすべてのせてみて初めて、どうしていこうか?って話ができるんじゃないかなあって思っています。

結局、みんな欲望を隠して生きていて、それを巧みな言説で隠して、騙しているから、話が噛みあわなかったり、問題の解決ができなかったりするんじゃないかなって話。

ただ、そういう欲望をさらけ出せる社会って難しいよなあとは思います。自分もなかなか難しいです。吐き出すのは。

でも、100年後の人類だったら、そういう人間の欲望もひっくるめて、理想的な社会を築けているような気もしています。

希望的観測かもしれないけど。

リンク