勉強が嫌いな理由と解決策&学校システム破壊と新システムの提案

投稿者: | 2023年7月24日

あくまで個人的な考えをつらつらと書いたものです。

勉強とは

まず勉強とは何か?について考えてみます。

コトバンクに寄れば、

学校の各教科や、珠算・習字などの実用的な知識・技術を習い覚えること。 学習。 また、社会生活や仕事などで修業や経験を積むこと。

勉強(べんきょう)とは? 意味や使い方 – コトバンク

だそうです。

他にも意味はありますが、端的に言うと「勉強とは人生においてプラスになる知識を覚えること」なのかなと思いました。

学校の勉強しかり、社会人になって勉強する内容しかり、基本的に勉強することで自分の人生にプラスになることなのかなと。

プラスというのは、例えば良い大学に入れるとか、良い会社に入れるとか、給与が増えるとかかな。

で、このプラスになるという考え方が、実は勉強が嫌いになる理由ではないか?と個人的には思いました。

学生と社会人の違い

学生の頃、勉強が嫌いでも社会人になると勉強することってありますよね。

で、その違いは明確にプラスになることが見えているかどうかなのかなと。

学校の勉強はかなり幅広く、それが何の役に立つのか?みたいな議論がしばしばあります。

しかし、社会人になってからの勉強は、例えば資格を取るとか、上司になるとか、技術力のアップとか、どれも基本的に明確な目的があると思うんですよね。

だから、学生の頃は勉強しなくても、社会人になると勉強をする人が出てくるんじゃないかなと。というか、自分の場合を考えるとそうだったかなと。

勉強が嫌いになるのは目的がわからないから

前述したように、学生の頃、勉強が嫌いになる理由は、やはり知識を覚えることで一体自分にとってどんなプラスがあるかわからないからではないかなと思います。

勉強する目的がわかならいということ。

目的が分からず、何かをしなければいけない状態というのは、勉強に限らず、モチベーションがかなり下がりますよね。

例えば、毎日、腕立て伏せを100回やるように指示されたとしても、続けるのは難しくないですか?

でも、腕相撲大会で勝つためとか、目的があると意識は変わると思うんですよね。

つまり、勉強が嫌いな子どもには、目的を明確化する必要があるじゃないかなと思いました。

勉強をしない理由をギャップで考える

目的が明確になったとしても、勉強をしない場合もあります。それをギャップ、つまり差分で考えると、わかりやすいかなと。

具体的には2パターンあって

  • ギャップがあることを感じていない場合
  • ギャップが大きすぎる場合

かなと。

ギャップがあることを感じていない場合

これはそもそもギャップなど存在していないと思っているパターンです。

例えば学校の成績で、他の生徒と点数に差があったとしても、その差を本人が感じていないということ。

数字的な差があるのに感じていないとはどういう状態かと言うと、いわゆる、「俺もやればできる、ただやらないだけ」というやつです。

ここで、本人が比較しているのは、点数の差ではなく本人の能力、ポテンシャルの部分になります。

つまり、論点ずらしと言えるかもしれません。論点をずらして自分を納得させているのかなと。

まあ勉強しない言い訳ですね。自分はこのパターンでした。

この論点ずらしについては、明確な目的が必要なのではないかと思います。目的が定まっていないので、論点ずらししやすいからです。

目的が明確になれば、そことのギャップが見えるので、本人が気づきやすいのではないかなと。言い訳を許さないと言い換えることができるかもしれません。

ギャップが大きすぎる場合

これはテストの点数の差が大きすぎて、埋める気にもなれないというパターンです。

確かに、学校のテストの点数が悪く、全国模試でも最下層にいる人が、いきなり東大を目指すというのは厳しいですよね。

これは点数の差というよりは、目的にギャップがありすぎるケースなのかなと思います。

この場合は、最初は小さな目的を達成することからはじめるのが良さそうです。ちょっとずつギャップが埋まっていることを感じれば、それをさらに埋めようとしていき、結果として勉強するようになるんじゃないかなと思います。

適正な目的を決める

やはり勉強が嫌いだったり、勉強しない人には、適正な目的設定が重要な気がします。

前述したように社会人になって明確に目的ができると人は自ら勉強するわけで、学校の勉強についても同様ではないかなと。

で、目的は高すぎず、低すぎず、適正な目的を決めるのが重要そうな気がしました。

自分で目的を決める

また個人的にもう1つ大切なことは、自分で目的を決めることじゃないかなと。

社会人の場合、資格にしろ給与にしろ、自分でそれを求めていて、自分で目的を定めています。

もちろん、中には会社から指示されて勉強することもあるでしょうが、その際の勉強ってめんどくさくて嫌ですよね。

でも、自分でこの資格を取る!と思えば、三日坊主だったとしても、会社に指示されたときよりはモチベーションが高いことは間違いありません。

なので、目的は自分で決めるのが良さそうです。

三日坊主なら目的を変える

自分の場合はそうですが、はじめる時はかなりやる気があっても三日坊主で終わってしまうことが多かったです。

でも、それでも良いのかなと最近は思っています。

その理由として、

  • 挑戦すること自体は前向きなので良い
  • 目的設定が間違っていた

という感じ。

そもそも何もせずに無為に過ごすよりも、少なくとも一歩踏み出したこと自体、称賛しても良いのかなと。

また、三日坊主になるのは前述した目的とのギャップが大きすぎたことが原因じゃないかなと。

であれば目的を再設定すれば良いんじゃないかと個人的に考えています。

勉強が嫌い、勉強をしない理由

結局何が言いたかったかと言うと、勉強が嫌いなのは、

  • 誰かに強制されていること
  • 目的が適正ではない

ことが理由なんじゃないかなという話。

で、それを改善する方法として、

  • 目的を自分で決める
  • 失敗したら目的を再設定する

のが大切かなという話。

で、ここで終わってしまっても良いのですが、少しだけ別な角度から勉強について考えてみようかなと。

知ることは楽しい

まず大前提として人間は知ることは楽しいと感じる生き物だと思っています。

いやいや、そんなことは無いと言う人もいるかもしれません。

確かに世の中には知ることを拒否している人もいるかもしれませんが、多くの人は知ることが楽しいはずです。

オタクの人なんかはわかりやすいかなと。マンガやアニメの知識がすごいじゃないですか。

それって知ることが楽しいから何ですよね。

面白いからマンガやアニメを見ているというのもありますが、結果として知識として覚えてしまっているわけです。

もし、そのマンガやアニメの知識を覚えることを強制されたらどうでしょうか?

好きなものだったら、まあ何とかなるかもしれませんね。

では、女性のファンションだったら?

私は全然ダメだなと思います。

自分は家族の中では結構勉強ができる方でしたが、例えば妹は女性ファンションについては私よりも遥かに知識を持っています。

アパレル業界で働くとなったら、絶対に私は上手くいかないですが、妹は上手くいくでしょう。実際にショップの店員もしていたので。

何が言いたかったかというと、好きなことなら勉強するという話です。

これも良く言われることですね。これをもう少し深く考えてみようかなと思います。

なぜ好きなものだと知識を得ようとするのか

個人的に考えたのは

  • 目的を自分で決めている
  • テストが無い

なのかなと。

目的を自分で決めている点については、前述の勉強が嫌い、勉強をしない理由の改善点でも書きました。

やはり自ら進んで知識を得ようとしている点が大きいのだと思います。当然ですが、そこには必要ないと思うことは学んでいないわけで、目的が明確になっているわけです。

またテストが無いというのも影響が大きいのかなと思います。テストがあるだけで、そこに少なからず強制力が働くというのと、テストのために勉強するという目的が発生してしまうためです。

つまり、テストがあると目的が変わってしまうという話。そうなると、目的が自分で決めたものではなくなってしまうので、モチベーションが下がってしまうわけです。

テスト自体を目的化できるか?

では、テストが悪か?というと、そういうわけでもありません。また目的にもなると思います。

一番わかりやすいのはクイズ王などです。

そこで勝つことを目的とする場合、同じ知識を詰め込む行為でも全然モチベーションが変わるでしょう。

そう考えると、学校のテストは定期的にやってきて、目的を強制されているのが、良くないのかもしれません。

もし、テストを受けるタイミングを自分で決めることができたら、テストを目的化できるのではないか?と個人的には思います。

義務教育のメリットとデメリット

前提条件として個人的に義務教育というのはメリットが多いと思っています。

特に日本は義務教育がしっかりしていて、最低限の知識ラインが高く、多くの人が読み書きできる状態です。

そしてそれは簡単な内容であれば意思疎通が比較的しやすいことに繋がっているのかなと。で、結果として犯罪などが起きにくく、統制が取りやすいように思います。

犯罪が起きにくいという理由として、なぜ犯罪が悪いのかを理解しやすいですし、禁止事項を理解しやすいですし、読み書きができれば付ける職業の幅も広く、無職になりにくいため、貧困に陥りにくいからではないかなと、個人的に考えています。

また、統制が取りやすいという点では、コロナのマスクなどがわかりやすいですね。リスクについて情報を開示し、マスクをしましょうと言えば、多くの人がそれに従うわけです。

反マスクなどもありますが、多くの人がマスクの効果などから反マスクを掲げているので、少なくともマスクをしようという主張について理解はできていることがわかります。

つまり、議論しようとしているわけです。

そもそも義務教育がしっかりしていなければ議論もできないでしょう。

そういう意味で義務教育は大きなメリットだと思っています。

ただ、勉強嫌いや勉強しないことに対しては、逆にデメリットになってしまっているのかなと。

義務教育のデメリット

義務教育のデメリットが前述したテストにあるのではないかなというのが個人的な見解です。

いわゆる横並び教育によって、定期的なテストが行われ、そこで順番が付与されます。最近では、順番を張り出さなかったり、明確に順番を出さないケースもあるようです。

確かに順番を明確にすると、そこでギャップが生じてしまい、モチベーションが下がる生徒も出てくると思います。

中には奮起して順位を上げることを目標にする人もいると思いますが、順位が決まった段階で、次のテストまでの期間はずっと劣等感にさいなまれそうです。

テストについては前述したように、強制力が強いように思います。

で、個人的な提案というか、解決方法として、テストを受けるタイミングを自分で決める方式はどうかな?と考えました。

テストを受けるタイミングを自分で決められる学校

テストをいつでも好きなタイミングで自由に受けられるとしたら、どんなメリットあるでしょうか。

まず、自分のペースで勉強できるのが大きいかなと。つまり、テストの目的化をしやすくなるというわけです。

また、テストは合格・不合格で判断すれば他者との比較もされにくいと思います。

当然テストを受けた回数で比較はあるかもしれませんが、そもそも論として、テストに受かると思って勉強して、自分でタイミングを決めているので合格しやすい気はしますが。

さらに、生徒の学習状況を可視化できるのもメリットかなと。

生徒ごとに細かに管理しなくても、例えば中学校の数学は合計で20回あったとして、Aさんは10回目まで進んだ、Bさんは7回目まで進んだとわかりやすいと思います。

人によっては義務教育に必要なテストはサクッと終わらせることもできるかなと。いわゆる飛び級というやつです。

個人的には結構良いシステムなんじゃないかなと。

授業は不要

このシステムのメリットとして、授業が不要というのもあるかなと思っています。

基本、全員自主学習なわけです。先生は生徒からの質問に答えるのがメイン。

補講とかも必要ありません。だって、自主学習なんですから。

落ちこぼれは生まれるか?

これはやってみないとわかりませんが、もし、今回書いた勉強嫌い、勉強しない理由が、

  • 誰かに強制されていること
  • 目的が適正ではない

であれば、このシステムでかなり解決できるように思います。

人によって記憶力に違いはあるので、そこで差はできるでしょうか、中学生レベルであれば、3年という期間で多くの人が問題無く卒業できるかなと。

というのも、無駄な時間が多いからです。

人には得意不得意があって、例えば歴史は得意だけれど数学は苦手という人は、正直歴史の授業を受けても学力向上は低いです。だって、得意な人は自分で勉強しますし、知っていることも多いでしょうから。つまり、その無駄な時間を数学に割り当てれば良いというわけ。

高校については、そもそもまったく勉強しない人が高校に入る意味ってあるのか?って思うので、それなら自分の好きなことに時間を使ってもらった方が良いのでは?と思います。

高卒が今よりは難しくなりそうですが、中卒のレベルは今より上がると思うので、個人的にはそこまで問題があるようには思えません。

共同生活を学ぶ場?

学校教育の必要性として、もう1つ挙がるのが、共同生活を学ぶ場的な話があるかなと。

個人的には、これがかなり懐疑的で、本当に意味があるのか?と思っています。

まずいじめの問題。

必ずいじめって発生しますが、学校側が隠蔽したり、そんな事実は無かった、把握してなかったみたいな言い訳しますよね。

つまり、学校は管理しない、生徒たちで勝手にやってくれってというわけです。

であるならば、学校である必要はありません。特に学校における生徒のコミュニティというのは、一般社会とはまた違ったロジックで動くので、社会人になって大いに役立つとも思えないかなと。

特に、いじめがあった時などに先生に言わない、家族に言わないなんてコミュニティは、本当に必要なのか?と思いますし、それを是としている社会も意味不明です。

そもそもそういう村社会的なコミュニティは良くないという方向に時代は進んでいると思うので、学校の生徒達のコミュニティは、そろそろ解体しても良いのでは?と個人的に思います。

下手したら、この生徒たちによるいじめ隠蔽コミュニティが、社会になっても隠蔽体質の原因になっているかもしれないですね。であるなら、改善した方が良い気がします。

じゃあ、人間関係をどう学ぶのか?という話ですが、そもそも学校で学べる人間関係って、そんなにあります?

それにそこで人間関係を作ると、結局学業での比較ができてしまうので、つまり、俺は数学のテスト10/20までいったけどお前はどうだ?みたいな感じになりますよね。じゃあ必要ないんじゃないかなあと。

部活は?

別に学校が部活を管理する必要ってあるのかな?というのが、個人的な意見です。

地域でサッカークラブを作って年齢別に分ければ良くないですか?

で、そこに県や市などがお金を出すという感じ。

学校の人間関係とはまったく別で、サッカーならサッカー、バスケならバスケのコミュニティとして活動させるわけです。

また、先生がコーチではなく、プロのコーチに頼んだ方が生徒にとってプラスな気もしますし、先生の負担も減りますよね。

運動会は?

出たい人だけ出れば良いんじゃないかなと。

そもそも近年では順位を付けないようにしたりしているようなので、であればただ走っているだけ、跳んでいるだけですよね。

無駄じゃないですか?

我が子の成長を感じたかったら公園で一緒に走ったり、跳ねたりした方が、子どもとコミュニケーションがとれますし、成長を実感できると思います。

修学旅行は?

修学旅行が楽しかった人っています?

個人的には面白くなかったですね。

中学校の頃の一番の思い出は、友達と自転車で鍾乳洞に行ったこと。自分たちで行き先決めて、地図を頼りに何十キロという距離を自転車で走りました。

途中で道を間違えて、目的の鍾乳洞には着けなかったですが、違う鍾乳洞には行くことができて、未だに思い出します。

これは自分たちで目的を決めたことが、思い出に残った理由かなと。

友達は?

一番、紛糾しそうなのは同性代の友達ができなくなるのでは?という話かなと。

でも、社会人になって完全同世代の友達って、なかなか出来ないと思うんですよね。

どちらかというと年代ではなくて、趣味嗜好でつながる友達の方が多い気がします。

であれば、10代の頃の友達もそういうコミュニティで作った方が良いのでは?とは思います。

価値観の違う人と出会えることが大切というのであれば、そういう経験を作ってあげれば良いだけかなと。

ただ、中学にしろ、高校にしろ、できる友達って何だかんだである程度属性が近い人が多いかなって思いますけど。

真面目タイプの人がヤンキーと肩を並べて友達友達していることって、どのぐらいありました?

個人的には見たことは無いですけど・・・。

まとめ

という感じで、ダラダラと書いたのですが、まとめると

  • 勉強嫌いの原因は自分で目的を自分で決められず、強制的に発生するテストで、
  • 解消する方法として、自分で目的を決め、自分のタイミングでテストを受けられるシステムはどうか?

という話。

結果として、学校というシステムを一度ぶっ壊してみるというのが個人的な結論です。

勉強をコミュニティと切り離すことで、自ら勉強するようになるんじゃないかなあと。

先生の負担も減るし、生徒のコミュニティを壊せばいじめも発生しにくいし、隠蔽体質の生徒のコミュニティで学べることは少ない気がしています。

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