僕が君にできるたった1つのこと 小説・設定ネタ

投稿者: | 2021年10月10日

いつからだろう。僕が死にたいと思うようになったのは。
僕の人生は、曲がりなりにも、良い人生とは言えない。
まあ、世の中を見渡せば、僕よりも不幸な人が多いのは知っている。そんなのは当たり前の事。
大切なのは、僕がどう思うかであって、客観的、相対的な価値観に意味があるとは思わない。
もしも僕がロボットだったり人工知能だったら、きっと統計データが役に立つだろう。A工場で生産したものは回路の調子が悪いとか、すぐに壊れるとか、相対的に見て性能が良い悪いという判断ができる。
でも残念ながら、僕は人間という種に生まれ、運良く自我に目覚めた。大変申し訳ないけれど、どんな事象であっても、僕自身の主観というものが入ってしまう。
だから、僕が不幸だと思えば不幸であり、幸福だと思えば幸福なのだろう。
人生における幸せとは、結局、そこに集約されると僕は思っている。
100億稼いでも不幸だと思う人もいれば、毎日ギリギリの生活をしていても幸せだと思う人もいる。
生まれながらにして、障がいがあっても幸せな人もいれば、不幸な人もいる。
それらすべては、僕が決めるわけではなくて、その人が決めること。周りがいくら不幸だと言っても、本人が幸せであれば、それで良いと僕は思っている。
だから僕の人生は、良い人生ではなかったし、幸福と言えるものではなかったと思う。
そんなことを毎日考えていれば、当然、死にたくもなる。
ただ、僕は僕自身、貧乏だから不幸だとか、友達がいないから不幸だとか、そいうことは考えていない。
僕が不幸な理由。
僕の人生が良くない理由。
それは、愛がわからないこと。
勘違いして欲しくないのは、親の愛情が足りないということじゃない。
親はとても僕を大切にしてくれた。そして、怒ってくれた。気にかけてくれた。
共働きだったから、一般的な家庭よりは、コミュニケーションが少なかったかもしれないけれど、少なくとも僕は愛というものを客観的に捉えることはできていると思う。
例えば、Wikipediaには、
愛 – Wikipedia
愛(あい、英: Love、仏: Amour)とは、崇高なものから、恋愛、そして欲望に至るまで様々な意味で用いられる概念である。
と書いてある。
この記載については、とてもよく理解できる。僕にも、欲望は存在する。愛とはそれに似た感性ということだろう。
文壇の方々には、Wikipediaよりも広辞苑の方がよいだろう。広辞苑には、
・広辞苑
親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり。
男女間の愛情。恋愛。
大切にすること。かわいがること。めでること。
〔キリスト教〕 神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー。
〔仏教〕 渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「十二因縁」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる。
と書いてある。
これらもとてもよく理解できる。これらの事例は、多くの場合、客観的に観測できる事象だから。
だから僕もそれを真似ることで、擬似的な愛を表現することができる。
しかし、心という点については、がらんどうの僕の中には、そもそも存在しない。
自分以外の他者を大切にするということはわかる。そしてできる。
家族に危機的な状況が起きたら、僕は駆けつけるのが正しい愛の表現だと思っている。
だから僕は、家族のところへ行く。家族に連絡を取る。それが愛というものだと理解しているから。

でも、それは愛という行動を模倣しているだけなのだ。

僕は本当に妻を愛しているのだろうか。妻は僕が本当に愛していると感じているのだろうか。それが不安の元なのかもしれない。それが死にたいと思う原因なのかもしれない。

けれど、それは贅沢な悩みだったのだろう。先日の健康診断でがんが見つかった。それも結構進行していて、長生きはできないそうだ。

僕は思う。愛とは何か? 僕は妻に愛がわからないと伝えるべきなのだろうか。それとも模倣を続けるべきなのだろうか。

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