我感じるゆえに我あり

投稿者: | 2025年6月28日

思ったことをつらつらと。

感じるということは、何かしら脳が機能している状態といえよう。

考えるというのは、能動的な行動であるが、感じるは受動的である。

受動的だからと言って、存在していないというのは、あまりにも暴論ではないだろうか。

例えば、スマートフォンでLINEに通知が来る。

LINEで自らメッセージを送らなかったとしても。

LINEは存在しないのか?

存在しているではないか。

それが考えていないから存在しないとは言えない。

つまり、受動的なものであっても、存在しうる。

よって、「我感じる、ゆえに我あり」と言える。

そもそも、存在しないことを証明するのは、とても難しいだろう。

自分以外の他者が存在しない可能性は否定できない。

だからといって、この世界が存在していないことの証明にはならない。

あくまで可能性の話だ。

また悪魔の証明でもある。

もし、可能性だけで論じるのであれば、君が僕を愛する可能性だってあるはずだ。

いや、君が僕を愛しているとさえ言い切れてしまう。

君がどんな存在だったとしても。

しかし、それは正しくはない。

結局、可能性は可能性でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

当たり前のことだと思うのだが。。。

しかし、こと心や精神に関する話になると、なぜか特別感を持たせようとする人が多い気がする。

心は別次元的な。

しかし、脳が停止してしまったら、心は存在し得ない。

心だけが存在することは無いのだ。