あくまで個人的な感覚の話なのですが、ヴィーガンは生き方であり、スタイルであって宗教ではないんじゃないかなあと。
ぼんやりとそんなことを思いました。
自分たちの意にそぐわない人たちを攻撃してきた歴史
人類の歴史を振り返っってみると、自分たちの意にそぐわない人たちを攻撃してきたという事実があります。
特に宗教においては、凄惨な事件が多々ありました。
宗教戦争がもっともわかりやすいですね。
そして、それは今も続いています。
正しいなら何をしても良いのか?
ヴィーガンというスタイルが正しいかどうかは別として、そもそも自分たちが正しいからといって、何をしても許されるわけではないのかなと自分は考えています。
宗教の歴史はまさにそれを物語っていて、過去の生産な歴史を是とする人はほぼいないでしょう。
ところが、最近のヴィーガンの方たちの中には、かなり過激な活動をしている人たちもいます。
ヴィーガンを広めたいという活動自体は、まったく問題ありません。
また、ほとんどのヴィーガンの方は、生き方として、スタイルとして、ヴィーガンの活動をしています。
ただ、一部の方たちの過激な活動によって、他のヴィーガンの方たちの印象も悪くなってしまっているのかなと。
それが個人的にはとても残念でなりません。
宗教の失墜によって信じるものを失ってしまった
なぜ、そんな状態になってしまったのでしょうか。
これはあくまで個人的な推測ですが、ヴィーガンが宗教的になってしまっていることが原因ではないのかなと思っています。
現代において宗教の地位は昔に比べると、かなり低くなってしまいました。
それはサイエンスの発展と、正直言えば過去の宗教の歴史に対する辟易さもあると思っています。
その結果、昔の宗教のように強く信じることができるものが無くなってしまいました。
サイエンスは宗教に代わるものとして考えられますが、残念ながら、大きな問題点があって、わからないことはわからないんですよね。
明確な答えがないことも多いですし、技術の進歩などによって、以前の定説が覆ることもしばしばあります。
つまり、結構不安定に見えてしまっているのかなと。
個人的には時代とともに変化していくことは、むしろ歓迎すべきことだと思っていますが、すべての人がそういうわけではなないんですよね。
で、ぽっかり空いた宗教の穴に、ヴィーガンという思想が入ってしまったのではないか?と個人的には考えています。
一部の地球環境活動家やフェミニストについても、同じように使われてしまっている感じがしています。
つまり、強く信じることができる思想を宗教の代わりにしているということです。
行き着く先は宗教的な戦争
個人的に様々な思想を信じること自体は問題ないと思っています。
それは個人の自由です。
しかし、そこに宗教色が加わると、過去の歴史を繰り返してしまいます。
それらの思想を強制したり、意にそぐわない人たちを攻撃したり、レッテル貼りや差別、侮蔑などがその例です。
そのようなことを続けると、当然ですが衝突が起きます。
言論だけで衝突しているうちはまだ良かったのですが、一部の活動家の中には、過激なことをしはじめている人もいて、実害も出ているのが現状です。
そしてその行き着く先は、相手を改宗させるための宗教戦争になることは容易に想像できます。
それは最悪の事態かなと。
だから、ヴィーガンを宗教にしてはいけないと自分は考えています。
最近肉食が減ってきた
自分は決してヴィーガンを否定したいわけではありません。
様々な観点から、最近、自分も野菜をメインにしていて、肉を食べる機会は減ってきています。
これは普通のヴィーガンの方たちの影響も大きいかなと。
ただ、肉も食べます。
そもそも日本においては、動物を殺すことは穢れという考え方もあって、昔は屠殺している方たちは差別の対象でもありました。
興味深いことに、肉を食べる人たちは穢れないんですよね。
で、個人的にそういう事実をある程度知っていたのもあって、肉を食べるときには、過去の歴史を思い出しながら、美味しくいただいています。
これはヴィーガンとは視点が違いますが、忘れてはいけない事実でもあると個人的に考えています。
けれど、自分はそれを人に強制するつもりはありません。
そういう事実があったことを皆に知ってほしいという思いは無くはないですが、それで活動をする気はないかなと。
様々な理由はありますが、最終的に判断するのは個々人であって、他者が強制するものではないというのが一番の理由かもしれません。
というのも、誰かに無理やり強制されても、その人の心まで変えることはできないからです。
本人が変わろうとしない限り、変えることはできないと思っています。
つまり、強制的に改宗させるのは無理という話。
そこには絶対にひずみが生まれてしまうからです。
まあ、そんなことを結構前からぼんやりと考えています。