モチベーション革命 稼ぐために働きたくない世代の解体書 – 人工知能にも代替不可能なもの……それは「嗜好性」

投稿者: | 2024年9月8日

評価・レビュー

☆4/5

モノに溢れた豊かな時代に育った若い世代のことを、乾けない世代(乾きが無い世代と言った方がわかりやすいかも)と言い、若者たちのモチベーションの在り処や今後の生き方について書かれた本です。

その要点は、偏愛。

本書では、人工知能が代替できないものとして、「嗜好性」を挙げています。嗜好性とは、人や動物がおいしく感じるかどうかということで、その人の好みとして使われることが多いです。

本書でも、「嗜好性」のことを、

「私は誰になんと言われても、これが好きだ」という偏愛

と述べています。

この自分だけが好きという偏愛を突き詰めることが、今の時代に求められていることという話です。

乾いている状態と乾けない状態

本書では、物が無かった昭和初期から現代に至るまで、人が求めるものが変わってきたとしています。

単純に言えば、昔は物ががなく、今は物が溢れているという話です。

物以外にも教育や情報、生活インフラなどが整っていて、ある程度満たされている状態と言えます。

物が無かった時代は、皆が物を求めて、働き物を手に入れることがモチベーションになっていました。

テレビが欲しい、ゲームが欲しい、高い肉が食べたい、いい家に住みたいなど・・・。それが現代では情報に移り変わっているように自分は考えていますが、情報も溢れていることは変わりなく、結局、不足している何かを強烈に欲することが無くなってきているということです。

不足している状態がいわば乾いている状態で、満たされている状態が乾けない状態というわけ。

で、話がぐるっと前に戻って、そんな乾けない世代にとって重要なのが、偏愛だということです。

だから若い世代のモチベーションをアップするには、若い世代への理解が必要になります。

つまり、若い世代の偏愛を知るということが、上司に求められることなのかなと。

部下の管理の本質は変わらない

ただ、偏愛だろうとなんだろうと、そもそも上司、管理職に求められることは、部下のやりたいことを実現することだと自分は思っています。

なので、時代は変わっても、管理職がすることって変わってないのかなと。

自分が初めて上司になった時、最初は部下にアレコレ命令しまくって、部署を管理しようとしました。

しかし、まったくうまくいかず、部下との溝は深まり、部署の雰囲気は非常に悪かったです。

ただ、あるきっかけで、それが一気に変化しました。

一番の変化は、部下が上司である私の仕事を奪っていったことです。

「こういう雑事などはこっちで片付けておきますよ。長なんですから、ドーンと構えていてください」

という感じで、勝手にどんどん仕事をしてくれるようになりました。

そんな状態になったのは、部下と信頼関係ができているのが一番の理由かなと思います。

隠し事をせずに情報をオープンにする

自分の場合は、部下にかなりの情報をオープンに話していました。

今後の会社の方針、新しい動きなど、仕事に関することは、じゃんじゃん話して、逆に部下から意見も貰っています。

個人の人事情報などぐらいですかね、話していないのは。

こちらがどんどん情報を流せば、逆に部下からも情報が出てきます。これが情報共有の形として最善かなと。

上司がいろいろと情報を隠せば隠すほど、部下は不信感を持つだけなので。

怒らない

また、部下からの指摘を真摯に受け止めるようにしたというのもあります。

以前は、自分が偉いのだから、自分の考えが正しいと絶対譲らなかったのですが、いろいろとあって、部下の意見を採用することが増えました。

もちろん、意見は戦わせます。何でもかんでOKという感じではありません。

ただ、そうやって部下が自分に対していろいろと言ってくれる状況がとても大切だなと感じたわけです。

当時は知らず後から知った言葉なのですが、人が話をするのには心理的安全性が求められます。

心理的安全性とは、自分の気持ちや意見を安心して話せる状態のことです。

部下が上司に対して、心理的安全性を感じていれば、しっかり意見を言ってくれるという話。

で、そういう状態を作るのは、上司が怒らないことかなと思っています。

そもそも、怒ったところで、ほとんど意味が無いと自分は考えているので、私は普段からもそれほど怒ることは無いのですが・・・。

例外で怒る時は、人の生死に関わるような事案、家族や大切な人が危険な目にあっている時ぐらい。

それ以外では、怒ることは無いです。

仕事をしていて、生死に関わるようなことってほとんど起きないですし、家族や大切な人が危険な目にあうこともあまり無いので、仕事では怒ることはありませんでした。

また、失敗やミスが発生した時に、失敗やミスについてクドクドと説教をしている時間があったら、失敗やミスのリカバリをした方が良いですし、同じような失敗やミスをしないように考えることに時間も労力も使った方が、効率的だとも考えています。

多くの人の場合、失敗やミスをしたら、自分で反省すると思いますし、そこに追い打ちをかける必要性も無いかなと。

基本的に無理やり他の誰かの行動や性格を変えるというのは、結構難しいと思っていて、変えるには自分で気づくしか無いんですよね。

だから、行動や性格などについて注意するのではなくて、どうやったら行動や性格を変えられるのか?に注力した方が良いと思っています。

直接言うという以外の方法で行うのがコツです。

自分の場合は、代々、自分の失敗談の話をすることが多いかな。

同じようなミスの話をして、昔はコッテリ怒られたんだよねぇ。それが嫌でさ。その時はこんなふうに対応して何とか乗り切ったけど・・・みたいな感じ。

そんなことの積み重ねによって、部下との間に信頼感が生まれ、心理的安全性が確保され、部下がいろいろと話してくれるようになれば、部署としてまわりはじめるように

舐めてくる部下

怒らないと舐めてくる部下も出てくるでしょう。そういう人は相手にしないのが正解です。

無理に押さえつけても意味はありません。

ある程度、自分が上司として部下から信頼されている状態だった場合、舐めてくる部下は周囲から、あの人は何もわかってないなと思われるようになります。

つまり、土台がちゃんとできていれば、舐めてきてもびくともしないわけです。

で、舐めた行動をすればするほど、周囲からは、子どもだねぇって思われるだけ。

本人の評価がどんどん下がっていくでしょう。

これは仕方がありません。

でも、失敗やミスをしたときは、普通にフォローします。そうやって支えて上げていくと、いつの間にか、舐めた行動をしていた人が変わっていきます。

タメ口で話してくるような人に対して、自分が言ったことがあるのは、

「自分にタメ口するのは良いけど、他の部長や先輩にはタメ口で話すと、クソ怒られるから、やめときなよと。怒られるとめっちゃ凹むし、無駄に時間を使うからね。あと社外の人ね。タメ口が原因で関係が悪くなったら、君の責任になっちゃうから」

と言ったことがあります。

でも、結局、自分にタメ口を使うことは無くなりました。

なぜなら、どうやっても違和感が出てしまうからです。

ちなみに、タメ口については、その人だけOKということではなくて、部署の皆にも言っています。

ただ、誰もタメ口はきかないですけどね。

そういう状態になってはじめて、舐めた口をきいていた人は、自分がズレていることに自分で気づくわけです。

これも、自分で気づかないと変えられないという話。

管理職の仕事とは

つまるところ、管理職の仕事というのは、「部下が最大限にパフォーマンスを発揮できる状態を作ること」であって、部下に命令をすることじゃないんですよね。

一人ひとりの性格や能力を把握し、さらにやりたいことを把握し、部下の話を聞きながら、調整していくのが管理職の仕事だと自分は思っています。

本書を読んでも、その考えは変わらないかなと。

やり方が人それぞれという感じ。

ただ、根幹はたった1つで、「部下を一人の人間として接する」だと思っています。

部下は奴隷じゃないんですよね。人間なんです。

だから、人間として接することが重要だと自分は思っています。

余談:叱ると怒るの違い

これは個人的にですが、叱るも怒るも、その意味とは違って、多くの場合、同じように使われている印象があります。

正確には、上司は叱っていると思ってるが、部下は怒られていると感じているという感じ。

そこに大きな溝があるんですよね。

なんでそんな溝ができてしまうかというと、部下との間に信頼関係が無いからです。

また、叱るという言葉は相手の悪いところを指摘し、注意するという意味で、怒るは不快なことが起きた時に発生する感情です。

つまり、感情を出してしまったら、それはどうやっても叱るではなく、怒るなんです。

だから怒ってはダメなんですよね。

感情を出さないというのは、鉄仮面のように感じるかもしれませんが、出したほうが良い感情はたくさんあります。

それはプラスの感情。

結局、貴方がマイナスの感情を出せば、相手はマイナスの感情を受け取り、貴方に対してマイナスの感情が残るわけです。

この感情を取り除くには、それ以上のプラスの感情が必要になります。

一度マイナスになってしまうと、それを取り戻すには2倍、さらにプラスの感情に持っていくには4倍のプラス感情が必要になるかなと個人的に思っています。

何が言いたいかというと、部下にマイナスの感情を植え付けてしまうと、ほぼプラスの感情には戻らないということです。

そしてプラスの感情に戻すには、相当な労力が必要になります。これは非効率極まりないです。

なので、相手にマイナスの感情を持たせないことが重要。

自分が上司だったときは、基本的に失敗やミスが発生しても、叱ることも無ければ怒ることもありません。

ただ、失敗やミスの原因について、本人に話をさせて、改善策についても考えてもらいます。

で、改善策を実践してみて、うまくいけばそのまま、また失敗やミスが発生したら、じゃあ次の方法ためしてみようぜ的な感じで対処していました。

ちなみに、自分が失敗やミスしたときは、率先して部下に「やっちまった。すまん。」と謝るようにしています。

そうすることで、部下がリカバリしてくれることも多くありました。

部下に助けて貰うのを嫌う人もいるかもしれません。そういう上司像もあるとは思います。

ただ、部下から助けて貰うリーダー像というのもあるんですよね。

漢帝国を作った劉邦、三国志で言えば劉備などはその典型例。

そしてそういう人物が好きな人も非常に多いです。自分はそういうタイプかなと。

最初は曹操みたいに考えてたんですけどね、ダメでした。

個人的メモ

本書からいくつか気になった内容の個人的メモ。

生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである
ダーウィン

生物の種についての話ではありますが、あらゆることに言えるのかなと個人的には思いました。

特に、今は変化の早い時代と言われています。

常識はどんどん変化し、新しい概念やテクノロジーが次々登場し、それらに適応していかなければいけません。

昭和的、平成的な考えでずっといると、変化の波に飲み込まれてしまうでしょう。

今の日本はベビーブームにる中年以上の年齢層が圧倒的に多いため、それらの人たちが社会の権力を握っている状態であるため、うまく変化に適応できないようにも思います。

それが様々な不満として出てくるわけですが、それに適応できないですよね。

票数も多いですし。

ただ、ずっと変化しないものなんてありません。長期政権で安定なんてことは無いのです。

安定しているように見えて、実は下り坂をゆるゆると下がっているだけのことの方が多いと自分は思っています。

だから、変化が必要。正確に、周囲が変化しているのだから、自分たちで変化への適応に挑戦しなければいけないということです。

変化に適応するには、非常に労力がかかります。

自分もそうですが、歳を取れば、どんどん理解力が落ちていきます。理解するのに時間がかかってしまい、結局変化に適応できずに終わっていくでしょう。

今の日本はまさに変化に対応できずにいる状態かなと。

であれば、若者たちにもっと権力を与えても良いんじゃないかなと思います。

ただ、何でもかんでも変化変化というのも、実は良くなくて、世の中には触れてはいけないものというのもあるので、そういうバランス感覚というのは、経験を重ねた人たちの方が若者たちよりも一日の長があるでしょう。

だから、主体は若者に、サポートとして重鎮たちというが、一番良いのかな。あ、重鎮たちは口うるさくないというのが前提ですが。

じゃないと、摂関政治みたいになりますからね。それじゃ、何も変わらないので。

話は全然変わって、

すでに世の中には必要最低限のものは溢れています。今は「どう遊ぶか」までを、提案してあげなければなりません。相手の潜在的な欲求を見つけ出して、体験をプロデュースしていくのが、これからの仕事なのです。

という言葉も興味深かったです。

ただ、個人的に思っているのは、相手の潜在的な欲求って、見つけるのが難しいだろうなという話。

潜在的ですから、表には出てこないわけです。表に出たら潜在的ではないですからね。

つまり、相手の心の奥底に眠っている欲求を、何とかして見つける必要があります。

現在のテクノロジーでは、なかなか相手の潜在的な欲求を見つけ出すって難しそうですし。

で、自分が思うのは、結局自分の中にしか答えは無いんじゃないかなって話。

自分はシャワーを浴びながらよくお風呂で歌を歌います。外に響くので、大声は出しませんが。

であれば、防音完備のシャワー室って需要あるかもしれません。恋人と一緒に使うこともできそうですしね。

ちなみに、シャワー音が騒音としても騒がれているようなので、防音シャワー室がある集合住宅というのは需要があるかもしれません。

という風に、自分が普段の生活でやっていること、小さい頃にやっていたことなどが、潜在的な欲求を見つけ出すヒントなんじゃないかなと。

そんなことを思いました。

また、

世の中の人にとって「新しい意味」をもたらすものは、人との違いや、ズレから生じる「好き」や「歪み」です。

これもその通りかなと思います。

ただ、人との違いやズレから生じ「好き」や「歪み」は、基本的に排除されがちです。

これは共同体の中で生活していく際には、むしろ足枷になります。

本書では、自分にとって確固たる強度になる前に、アウトプットするなと書いてあって、まあそれも一理かなと。

個人的にはインターネットで同じような仲間を集める活動をする方が手っ取り早いようには思います。

もちろんすぐに集まるとは限りませんが。

また、アウトプットする際には、匿名でやることによって、自分の心理負担を少し軽減できるので、匿名で情報発信するのが良いでしょう。

といっても、発信するのはかなり大変。

なので、最初は同じような「好き」を持っている人を探して、SNSなどでフォローして、ゆるいつながりから始めるのが良いのかなと。

あと、同じような嗜好の人たちが集まると、間違った方向に向かった時に、中にいる人というのは気づきにくいです。

なので、アンチ的な人たちの意見にも耳を傾けた方が良いかなと思っています。

最近だと、子どもたちに残酷な食肉の写真を見せるという活動などは、正直、行き過ぎてしまっているかなと。

リアルな世界を子どもたちに知ってもらいたいというのはわかりますが、幼少期に残酷な情報を得てしまうとそれがトラウマになることもありますし、最悪のケースではそのような残酷な行為に興味を持ってしまい、それを実践しようとする子どもも現れるということです。

過去の少年犯罪の背景を見ても、最初は弱い動物から始まり徐々に大きな動物になり、最後は人間という流れがありましたが、そのきっかけは残酷な描写を見たことがはじまりでしょう。

ある程度、分別がつくようになってから、事実について教育することは大切だと思います。

ただ、分別がつかない子どもたちに対して、トラウマにしても興味を持つにしても、子どもたちの性格を捻じ曲げるような残酷な写真を見せるのは、ちょっと違うかなと。

で、このような事態が起きてしまうのは、なにもこの事案だけではなくて、いわゆる活動家と言われる人たちに多い傾向です。

環境活動家が絵を汚したり、道を封鎖したりした事件がありましたよね。

どんどん過激になっていきます。

絵を汚しても、道を封鎖しても、地球環境は一切良くなりません。

考えるきっかけになると言いますが、であれば、インターネットなりテレビなり、様々なメディアを使って情報発信したり、CMを流したりすれば良いのかなと。

でも、そういうことはほとんどしないんですよね。

目立つパフォーマンスばかりしようとするというか、いわゆる炎上商法になっているわけです。

これも本人たちが同じような考えの人たちだけで集まっているために、ズレが見えていない状態だと思います。

ただ、彼らも別に本気で活動しているわけではなくて、活動家というビジネスをしているので、そういう意味はで本書で言うところの、「歪み」をとことん突き詰めた形なのかもしれません。

個人的には、活動家をするのであれば、解決策について考える方が建設的かなと思いますが、実際どうなんでしょうね。

活動家に投資するのであれば、その分、地球環境をテクノロジーで解決する研究に投資した方が、解決は早いような気はしていますが。

このあたりは、見解の相違なんだろうなとも思います。

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