東京原発は都の財政改善のために東京に原発を誘致すると都知事が宣言し、てんやわんやする社会はコメディ映画。
「国のやることに責任者なんかいるわけないでしょ」というセリフは天馬都知事(役所広司)が秘密裏に日本へ運ばれたプロトニウム燃料に対する問題に対して原子力安全委員会 松岡(益岡徹)に問い詰めた際に松岡が返した言葉です。
天馬都知事:責任者は誰だ。
松岡:何言ってるんですか、国のやることに責任者なんかいるわけないでしょ。
天馬都知事:くそっ。
名言というと違うかもしれませんが、個人的に国の政策をうまく表現している言葉じゃないかなと思っています。
国家政策の責任所在の難しさ
過去日本では、公害に関する事件や薬害エイズ事件など、政府に関連する事件がいくつか起きています。政府の政策については、その時の総理大臣や各省庁の大臣、省庁の担当者が決めているわけです。
しかしながら、その責任所在について明確にされることはほぼありません。
それを良しとするか、悪しとするかは難しい判断です。というのも国家政策の重責を1人の人間が背負うというのは、あまりにも大きすぎるでしょう。そういう意味で「国のやることに責任者なんかいるわけないでしょ」というわけです。
ただ責任の所在が無いということは、どんな政策においても無責任に政策を決定できるとも言えます。政治家は失敗をすれば辞任することになりますが、職を失うというわけではなくリスクも低いです。
政治の難しさというのは、まさにこの点にあるわけです。
大きな政府と小さな政府
一時期大きな政府と小さな政府という言葉が流行りました。大きな政府というのは、簡単に言えば税金を多く徴収し国民の生活を保証する政府で、小さな政府というのは税金の徴収は少ないが国民の生活は自己責任という政府です。
大きな政府になればそれだけ権力が高まり、政策に責任が伴います。小さな政府はその逆というわけです。
今の日本はどちらかと言えば大きな政府と言えるでしょう。生活保護もしっかりしていますし、ライフラインも整っています。
だからこそ政治家の権力も強く、言ってしまえばその権力に群がる人も多いわけです。権力はざっくりと利権と言ってしまっても良いかもしれません。それが現状では大きいということです。
政策は誰のために
何が言いたいかというと、現在の政策の中には国民のための政策ではなく、権力に群がる人のための政策があるということです。
いわゆる陳情というやつです。まあ、公に陳情する場合は良いのですが、実際問題公にならない陳情の方がたくさんあります。
それが所謂政治家の賄賂問題。
政策の責任の所在は明確にされないのに、その政策には一部の恣意的な思惑が絡んでいるわけです。個人的にはここが一番の課題ではないかなと思っています。
言葉として問題ではなく課題としたのは、人間が完璧ではないからという理由です。賄賂は良くないのは当然ではあるのですが、それを全て滅することは難しいでしょう。個人的には解決方法が無いとも思っています。
その一番の理由として秘書の責任問題があります。
秘書は犯罪者の温床なのか?
政治家の贈収賄事件があると、よく秘書が勝手にやったということで事件が解決されることがあります。
真実はどこにあるのかはわかりませんが、過去の歴史を紐解くと多くの場合は秘書が独自でやったことになっています。
また映画やドラマなどでは、政治家の責任を被るために秘書が責任を取るという真相が語られる話が多いです。これが事実かどうかはわかりませんが、少なくとも1つだけ言えることは秘書が罪を犯すことが多いという事実です。
個人的にはこの点をもっと解明というか、分析というか、この秘書というシステム自体を見直す必要があるのではないかと思っています。
秘書が責任を取る理由
自分は小さな会社ですが秘書をやっていたことがあります。しかしながら権限はほとんどありません。当たり前です。秘書ですから。
ただ、社長から責任転嫁をされ、勝手に秘書がやったと言われたこともあります。
しかしながら、会社の決裁というシステム上、秘書が勝手に何かをすることはできません。必ず社長決裁が必要です。秘書に権限はありません。つまり、内部的には社長の決定でやったのだが、外聞の問題で秘書の責任にされるということです。
このようなことを行う理由として社長は、
お前が居なくなっても会社が無くならないが、俺が居なくなると会社が潰れる。
という話をしていました。
これが秘書が責任を取る理由です。なんて言い草だと思われる人もいるでしょうが、会社には多くの従業員がいます。もし、会社が潰れたら社員がいきなり路頭に迷うわけです。そして社員の家族も困るでしょう。
そして秘書に問うのです。
お前は社員の人生の責任を取れるのか?
と。自分の場合は、結局自分1人が割を食うことで他の人が助かるならばという理由で色々と責任を負いました。
これは会社の例ですが、政治家においても同じようなことが言えるでしょう。政治家は顔商売とも言われることがあり、政治家自身が商品なわけです。そこに傷が付いてしまっては、その政治家に関係している多くの人に影響がでます。だから政治家は不正をしていても認めないわけです。
しかし、責任を誰かが取る必要があります。結果として秘書が責任を取るというわけです。
秘書の監督責任の厳罰化で何とかなるか?
つまり、賄賂によって政策を決めたとしても政治家自身は責任を取ることはなく、安心して利権を行使できるわけです。たとえそれが国民の利益に反していようとも。そもそも政策自身に対しても責任を取る必要が無いですから、政治家は常に安全圏にいるのです。
個人的にはこれが政治家の腐敗原因かなと思っています。
その対策としてはやはり秘書の監督責任の厳罰化かなと。ただ、これも回避方法はありますからね、一概に正しいとは言えなそうです。
少なくとも常に安全圏にいる人が責任無く政策を決めている現状を変えないことには、政治家の贈収賄事件は無くならないでしょう。そして政策に対する責任も曖昧なままのような気がします。
政治と金の問題は永遠の課題かもしれません。