寛容論 – 論争においては互いに寛容でありたいし、自分が理解できないことについてはつねに謙虚でありたいものだ

投稿者: | 2024年11月8日

評価・レビュー

☆5/5

18世紀のフランスで起きた冤罪事件 ジャン・カラス事件に端を発し、主にキリスト教のカトリックとプロテスタントの間で起きた悲しい事件を引き合いに出しつつ、ジャン・カラス事件の冤罪を晴らすため、そして我々は寛容であるべきと説いたヴォルテールの著書。

スタンスとしては、当時の宗教を批判している感じですが、ヴォルテール自身は神の存在を信じており、言ってしまえば、神の代弁者たちを批判しているというのが個人的な感想です。

そして、この構図は、現代においても続いているというか、宗教以外でも同じようなことが行わています。

一番わかりやすいのは、活動家と呼ばれる人たち。

彼らが、様々なことを発信すること自体は何ら問題ありません。それは日本では表現の自由として認められていますし、世界的にも先進国では同様でしょう。

しかし、問題なのは、彼らが何かの代弁者のように振る舞い、社会に対して迷惑行為を行うことです。

過激なことをして注目を浴びたいというのはわかりますが、それは軋轢しか生みませんし、過激な活動によって人が亡くなってしまうこともありました。

これは本当に最悪の事態ですし、狂信的な信者が狂信的な活動家と名前を変えただけでしょう。

宗教においては、様々な人々の活動により、そういう事態をできる限り回避する、防ぐように社会が変化していますが、そのような世界の動きに対して、歴史を逆行するような動きにも個人的には見えています。

そうならないように、不寛容ではなく、寛容な心を持つことが大切ではないかなと、本書を読んで改めて感じました。

全体的に、宗教によって引き起こされた過去の事件を取り上げているので、寛容そのものについての話は少ないです。

また、当時の時代背景を考えれば、差別的な内容も含まれています。

それでも様々な示唆があり、また本書自体も読みやすく、解説によって理解を深めることができるので、解説を含めて良書だと思いました。

以下は、本文を引用しつつ、個人的なメモ。

不寛容が地上を殺戮の場に変えた

寛容はけっして内乱の原因にはならなかった。不寛容が地上を殺戮の場に変えた。いまや、われわれは相反する二者のいずれかを選択しなければならない。信条のためなら、わが子をいけにえとしてささげる母親か、それとも、わが子の命を助けるためなら、どんな譲歩でもする母親か。

何でもかんでも寛容たれというのは、世界情勢を考えると、違うんだろうなとは思いますが、少なくともお互いの不寛容が多くの戦争を生んできたことは間違いありません。

そして今もその状態は続いています。

理想的にはお互いに歩み寄るのが一番なんでしょうが、基本的に相手の話を聞くことが無いので、ずっと平行線のまま。最終的に戦争になってしまうという感じなのかなと。

日本で言えば、やはり台湾有事が一番の懸念事項でしょう。

台湾有事が起きた際に、日本がどのような態度で、どのような行動をするのかは、かなり難しいところ。

また、先を考えれば中国が沖縄なども自国への併合を考えているのは、想像に難くありません。

中国に寛容の精神があれば、台湾有事は起きないでしょうが、おそらく不寛容の精神の方が強いので、このままだと近い将来、台湾有事は発生してしまうでしょう。

それを防ぐ方法はあるのか?というと、中国に融和を求めるしかないのですが、取り付く島もないのが今の状況かなと。

結局、ヴォルテールの書いたように、

信条のためなら、わが子をいけにえとしてささげる母親か、それとも、わが子の命を助けるためなら、どんな譲歩でもする母親か。

という究極の選択を求められることになるんだろうなと。

台湾有事が起きた際に、日本がどう対処するかについては、本来はもっとちゃんと議論すべきだと個人的には思っています。

起きてから議論したのでは、後手後手に回ることになりますし、おそらく、話をまとめる時間も無いと思うので。

悲しい話ですが、300年経った今でも、世界の状況というか、人間の本性的な部分というのは、ほとんど変わっていないのだなあと思ったりしてしまいました。

過去を水に流し今からはじめよう

過去のことはなかったことにしよう。われわれはつねに現在から出発しなければならない。諸国民がすでに到達した地点、つねにここから出発しなければならない。

正直、過去のことを持ち出すと、話が拗れることが多い気がしています。それは世界情勢についても、普段の生活においても。

過去に囚われているという言い方でも良いかも知れません。

当然、過去を蔑ろにはできませんが、大切なのは未来ではないかなと。

一度、これまであったことをすべてチャラにして、今からはじめることができれば、世界は、そして人間は次のステップに進めるような気がしています。

難しいでしょうけど。

また、ふと今思ったのは、豊かさの再定義が必要なのかもしれないということです。

貧富の差というのは、いつの時代も争いごとの種だと思います。

そして、現状では金というのが貧富の差の尺度でもあるわけです。

この尺度を変えることができれば、もしかすると、世界が大きく変わるかもしれません。

理解できないことについては謙虚たれ

論争においては互いに寛容でありたいし、自分が理解できないことについてはつねに謙虚でありたいものだ。

人望が集まる人の考え方という本で、

反対意見を持つ人を論破したくなるのが自然な衝動だが、本来の目的は相手を説得して賛同を得ることだ。

という言葉がありました。

言っている内容は違うのですが、個人的にはちょっと近い部分もあるかなと。

反対意見について、最初から理解をせず、不寛容であれば、どうやっても平行線です。論破したとしても、平行線であることは変わりません。

大切なのは、相手を説得して賛同を得ることであって、相手を論破したり、相手に対して不寛容の態度でいることではないのかなと。

そして、相手の言葉を理解するには、まず謙虚であることが大切だと思いました。

お互いに謙虚であれば、大きなぶつかりも減ると思いますし。

話はちょっと変わりますが、個人的に中国の古典がとても好きで、様々なものを読んでいます。

そして多くの中国古典においては、謙虚さの重要性を説いていますし、力で相手を征服することを良しとしていません。

あれほど素晴らしい著作がありながら、なぜ台湾に対して、謙虚な態度を取ることができないのだろうというのは、以前から疑問ではありました。

中国は以前から中国領だった、台湾は独立したと互いの言い分があるのは置いといて、相互に謙虚な態度で話し合いができれば、また違った解決策が生まれるのではないかとも思ったりします。

そもそも領土問題については、歴史のどの時点を採用するのか?という点に帰着するのかなと。

古い時代になればなるほど、中国は領土が狭くなりますし、例えば元の時代であれば、中国は存在していません。

これは中国だけの話ではなくて、イスラエルも同様ですね。

どの国も結局、自分たちが一番大きな領土を持っていた時期を採用したいので、明確にこの時点と決めるのは難しいでしょう。

宇宙飛行士の毛利さんが、「宇宙から国境線は見えなかった」という名言を残しています。また、宇宙船地球号なんて言葉もありますね。

国ではなくて、もっと大きな世界観というか、俯瞰した視点、つまり皆が地球規模で考えることができたら、もしかしたら紛争は少なくなるのかもしれません。

本書の言葉を借りれば、

人間たちは、みんな、たがいに兄弟であることを忘れないようにしよう。

という感じでしょうか。

宗教の必要性

じっさい、人類はきわめて弱いものであり、かつ、きわめて邪悪なものである。であるがゆえに、人類は、宗教をもたずに生きるよりも、考えられるかぎりのあらゆる迷信、ただし、ひとの命を奪わないていどの迷信に縛られて生きるほうがおそらく望ましいのである。

個人的には無神論者なのですが、ヴォルテールのこの言説には、納得できる部分があると感じました。

例えば、人の物を盗んではいけないというのは、あくまで社会の中のルール、法律でしかありません。

最近、哲学系の本を読んでいるとよく出てくるのですが、自然状態という言葉があります。

自然状態とは、社会が形成されていない状態です。

もし、自然状態だった場合、人の物を盗んだとしても、それは悪ではありません。

なぜなら、自然状態ではそのようなルール、法律が無いからです。

そんな状態においても守るべきルールがある、つまり神のルール的なもの(自然の法)があるという考え方もあり、それに従うのが、人間のあるべき姿だと考える人もいます。

まあ、いろいろと議論はあるものの、何が言いたいかというと、ルールや法律では縛りきれない部分を、宗教が理性とか、倫理観といったもので縛っているという話。道徳なんかもそうですね。

それが、宗教の役割なのかもしれないなと。

これは想像でしかありませんが、宗教が先か、国家が先かという話だと、個人的には宗教が先にあったんじゃないかなと思っています。

小さなコミュニティのルール的なものが、宗教の発端では無いかなと。

そして、それが大きくなって、国家が誕生したという感じ。

なので、宗教は倫理観的なものが強く、また独自の考え方が色濃くあるというのも、ローカルのコミュニティのルールから生まれたからではないかと個人的には考えています。

最後に、ヴォルテールの言葉で、

人間の権利は、いかなるばあいにおいても自然の法に基づかねばならない。そして、自然の法と人間の権利、そのどちらにも共通する大原則、地上のどこにおいても普遍的な原則がある。それは、「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」ということ。

が、基本的な原則としてはわかりやすいかなと思ったので載せておきます。

まあ、これも極論を言えば、自分がされて問題無ければ、相手にしても良いとも取れるので、難しいところですが。

という感じで、いろいろと書いてきましたが、宗教同士の争いや世界の紛争について考えさせられることが多く、また不寛容というのは分断や争いしか生まない気がしていて、もう少し皆が、ほんの少しだけ優しくなれたら、世界が平和になるんじゃないかなと思ったりしました。

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