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評価・レビュー
☆5/5
スピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなどの著作を引き合いに出しつつ、暇と退屈の違い、退屈はなぜ起きるのか、退屈の種類、退屈とは何かについて解き明かし、退屈を打破する方法までをまとめた書籍です。
自分とは視点が全く異なり、示唆に富んだ内容で非常に面白く読むことができました。
また、暇や退屈について、本書では結論を出していますが、あくまでそれは著者が導き出した答えの1つであるという点も興味深い点です。
というのも、本書は暇と退屈の倫理学であり、暇と退屈の定義が目的でないため。
本文から引用すると、
本書は〈暇と退屈の倫理学〉と題されている。倫理学であるから、やはり、何をなすべきかが言われねばならないだろう。倫理学とは、いかに生きるべきかを問う学問であるから。しかし、本書が一つ目の結論として掲げたいのは、こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要はない、というものである。
と、終盤に書かれていることからもわかります。
最初から通読することで、暇や退屈について新しい視点を獲得した上で、どう生きるのかを考える、第一歩となる本とも言えるのです。
言ってしまえば、本書を読み、その結論をあたかも自分の意見のように吹聴するのは、本書を読んでいないに等しいとも言えます。
本書では退屈について、かなり考察を深めていて、この深さまで考えを巡らすのはなかなかに難しいと感じるかもしれません。
でも、別に自分自身の結論を出さなければいけないというわけでもないのです。
それは、
本書を読むこと、ここまで読んできたことこそ、〈暇と退屈の倫理学〉の実践の一つに他ならない。
という言葉からも読み取れます。
結局、何が言いたかったかというと、結論だけを読んで、ああそうですかと情報を得ても、それは〈暇と退屈の倫理学〉という本の情報を得たに過ぎず、実際に手に取り、最初から読んでみるのが一番という話。
なかなかに読み進めるのは大変なところもありますが、暇や退屈について、確実に新しい認識が生まれるのは間違いないので、多くの方に読んでもらいたいなと思いました。
以下は、本書を引用しつつ、個人的に感じたことなどのメモです。
高度消費社会では供給側が需要を操作している
高度消費社会──彼の言う「ゆたかな社会」──においては、供給が需要に先行している。いや、それどころか、供給側が需要を操作している。つまり、生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようにしている、と。
カナダの制度派経済学者ジョン・ガルブレイスの考えです。
普通は需要があって、それを感知して生産者が供給するというのが需要と供給の考え方かなと思います。自分もそう思っていました。
これはあまり考えたことが無かったので、大変興味深いなと。
というのも、ふと世の中にある商品やサービスを見渡してみると、結構このパターンが多いような気がしたからです。
そして、それに気づかずに自分も消費社会に埋没してたとも言えます。
見方が変われば、世界が変わるという典型的な例でもある気がしました。
退屈している人間がもとめているのは興奮
退屈しているとき、人は「楽しくない」と思っている。
だから退屈の反対は楽しさだと思っている。しかし違うのだ。
退屈している人間がもとめているのは楽しいことではなくて、興奮できることなのである。
興奮できればいい。
だから今日を昨日から区別してくれる事件の内容は、不幸であっても構わないのである。
退屈の反対は楽しさではなく興奮であるというのは、確かにそうかもしれません。
そして、それは不幸であっても構わないというのは、まさにゴシップなどがその最たる例なのかなあと思いました。
自分もついつい芸能人などのゴシップを読んでしまうことがあります。
そこに興奮を求めているかどうかと言われると、それほど実感は無いのですが、今日を昨日から区別してくれる事件という意味では、とても実感があります。
つまり、毎日同じことの繰り返しだと人は退屈し、昨日と今日は違う日なのだと感じたいという本能的なものがあり、それには興奮が必要で、興奮とは事件であって、その事件は幸であっても不幸であっても良いということ。
大切なのは、昨日と今日が違うと認識できること、繰り返しではないと認識できることというわけです。
話は少し飛びますが、物理学者カルロ・ロヴェッリの著書『世界は「関係」でできている』
脳は、すでに知っていることや以前起きたことにもとづいて、見えそうなものを予期しているのだ。目に映るはずのものを予測してその像を作る。その情報がいくつかの段階を経て、脳から目に送られる。そして、脳が予見したものと目に届いている光に違いがあると、その場合に限って、ニューロンの回路が脳に向けて信号を送る。つまり、自分たちのまわりからの像が目から脳へと向かうのではなく、脳の予測と違っていたものだけが脳に知らされるのだ。
という内容がありました。
個人的に、退屈とこの脳の原理が関係していると考えています。
端的に言えば、脳は常に予測していて、予測と違うことが発生すると電気信号が流れるという仕組みあって、それが脳の刺激になる、ここで言えば興奮になるのではないか?ということです。
つまり、脳の予測と違うことが発生する、それが今日と昨日を区別したいという人間の本能的なものではないか?という話。
さらに言えば、脳の予測と同じことが続く状態が退屈ではないかということです。このあたりについては、暇についての個人的な考察も含めて後述します。
消費社会とは物があふれる社会ではなく、物が足りない社会
現代の消費社会を特徴づけるのは物の過剰ではなくて稀少性である。消費社会では、物がありすぎるのではなくて、物がなさすぎるのだ。 なぜかと言えば、商品が消費者の必要によってではなく、生産者の事情で供給されるからである。生産者が売りたいと思う物しか、市場に出回らないのである。消費社会とは物があふれる社会ではなく、物が足りない社会だ。
この視点も非常に興味深かったです。
消費社会というと、多くの人がたくさん物が溢れた社会とイメージしてしまうのではないでしょうか?
自分もそういうイメージで捉えていました。
しかし、消費社会では物が無さすぎて、すぐに消費してしまうということです。
本書では、消費ではなく浪費が大切であり、浪費とは必要の限界を超えて物を受け取り、浪費こそが豊かさであると説いています。
全然関係ないかもしれませんが、なんとなく現代における睡眠も消費になりがちなのかもしれないと思ったりしました。
自分はメンタルを病んでしまって、時間拘束のある仕事から離れています。
ですので、ずっと1日中寝ていることもあって、もう寝れないという状態まで寝続けることもあります。
これは時間拘束のある仕事をしていたときには、そんな風に寝ることはなかなか難しく、ベンチャーをやっていたこともあって、土日に休むということもありませんでした。
ある意味、もう寝れない状態まで寝るということは浪費に近いのかもなあと。そしてそれは豊かなことであり、幸せなことなのかもしれないなと思いました。
歴史の終わりとは目的が達成された状態
「歴史の終わり」とは何か? それは別に時間が止まるとか、世界が消滅するとか、そういったことではない。人間の歴史が、何らかの目的に向かって突き進むプロセスだと前提したうえで、その目的が達成されてしまった状態のことを「歴史の終わり」と言っているのである。
こちらはヘーゲルの考えをまとめたもの。
歴史の終わりというと、終末的なことをイメージしていましたが、言われてみれば目的が達成された状態が歴史の終わりでもありますね。
歴史というとわかりにくいですが、会社のプロジェクトなんかがわかりやすいかも。
失敗しても終わりですし、目的を達成してもプロジェクトは終わりますからね。
人間の歴史が向かっている目的は一体何なのか?については、改めて考えたいと思いました。
以下は個人的な暇と退屈に関する考えです。
退屈とは何か – 退屈とは脳がリソースを余している状態
本書では退屈について、
退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態のことだ。
と書かれています。
Wikipediaでは、
退屈(たいくつ)は、なすべきことがなくて時間をもてあましその状況に嫌気がさしている様、もしくは実行中の事柄について関心を失い飽きている様、及びその感情である。
です。
同じような内容が書かれていますね。
さらに、退屈の特徴として、本書では
退屈においては時間がのろい。時間がぐずついている。退屈する私たちは、このぐずつく時間によって困らされているのだ。
と書かれており、時間のぐずつきが退屈を生み出しているとしています。
で、個人的には、
退屈とは脳がリソースを余している状態
だと思っています。
というのも、感情とは「未来予測と現在の差分で発露するもの」ではないかと個人的に考えているからです。
つまり、未来予測と現在の差分が無いと、脳は何もすることが無い、つまり脳のリソースが余っている状態になり、それが退屈という感情を生み出しているということです。
前述した物理学者カルロ・ロヴェッリの著書『世界は「関係」でできている』の視覚に関する脳の構造と同じことが、人間の感情においても起きているという話。
そもそものきっかけは、電車に乗っている時にスマホをずっと触っていた時です。
自分が電車でスマホを触り続けるのは、脳のリソースの消費ではないか?と考えました。
電車に乗っている時間を有効活用したいのか?というと、実際に見ているコンテンツって、どうでも良いことが多かったりして、時間を無駄に過ごしてしまったと思うことがしばしばありました。
これはあくまで自分の感覚ですが、時間を有効活用したいのではなく、何かしていたいという衝動の方が強いという話で、何かしていたいという衝動の根幹が、脳のリソース消費ということ。
つまり、脳はリソースを消費するのが目的で、その目的が達成出来ていない時に、とりあえず脳のリソースを消費する何かをしたいという衝動が生まれるということです。
だから、脳のリソースが余っている状態が続くと、退屈という感情が発生し、何かをしようとするというわけ。
これが退屈という感情の発露と正体ではないか?というのが個人的な見解です。
暇とは何か – 暇とは予定が無い時間
次に暇について、本書では
暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇のなかにいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり暇は客観的な条件に関わっている。
と書かれています。
Wikipediaによれば、
暇(ひま、いとま)は、余った時間。することがない状態。
となっています。
個人的にも同じような認識で、暇とは「余っている時間」そのものを表現する言葉だと思っています。
ただ、単純に余っている時間というよりは、
暇とは予定が無い時間
という方が個人的な認識としては正しいかもしれません。
何かしら予定が入っていれば、そこは埋まっている時間で、暇ではありません。
というのも、何もすることが無い時間というと、自分の場合、暇な時間というのはほぼ皆無かなと思ったからです。
自分の場合、ボーッとしているような時でも、頭の中ではいろいろなことを考えています。
例えば、読んだ本の内容について考えたり、ブログなどのネタを考えたりしているからです。
でも、何かアクションがあれば、考えることはすぐに中断できます。例えば、ゲームに誘われたり、飲みに誘われれば、予定が入っているわけではないので、それらに対応は可能です。
なので、暇とは予定が無い時間というのが、個人的が見解かなと。
前述したように、自分は脳はリソースを使うのが目的だと考えいるので、脳が疲れていなければ、何かしら行動をしてしまうのではないかなと。
そして、何かしてしまえば、何もすることが無いという言葉と矛盾する気がするからです。
このあたりは、人によって感覚に違いがあるかもしれませんね。