武王の逸話から孔丘(孔子)が発した言葉
ドラマ 孔子 第5話 初めての旅立ちで、師の季札(きさつ)と孔丘(孔子)が野宿している時の言葉です。
周朝の創始者の武王が暴虐を尽くした殷の紂王を倒すため戦っていたが、敗戦続きで100戦目にしてようやく勝利したという逸話を、季札が孔丘に話した際に孔丘が、
勝者になっても何も得られず、逆に敗者には得るものが多い
と語ります。
それに対して季札は、再度孔丘に今言ったことを問うと孔丘は、
敗者の方が得るものが多い、同じ過ちを避ければ必ず勝利できる
と答えます。
季札はその言葉を聞き、
負けから学べない者は何も成し遂げられぬ。
と語り、孔丘に対して、
その言葉ゆえにお前は私の師だ
と言います。
そしてこの流れで季札が孔丘に、
朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり
と教えるのです。いやあ深い。
失敗学の話
個人的にこのやり取りを聞いて思い出したのが失敗学です。失敗を分析し、それを次へ繋げていくということ。
一番わかりやすい例が航空会社。事故が大惨事になる可能性が高い航空業界では、すべてのミスや事故について徹底的に分析し、それが二度と起こらないように、システム化しています。フライトレコーダーなどもその取り組みの1つと言えるでしょう。そして現在、飛行機事故はほぼ無くなりつつあります。
これは失敗から学んだ非常に良い例です。
しかし、それ以外の業界では意外と失敗から学べていない状況が多いように感じます。これはミスや失敗というのがネガティブに捉えられているためです。
隠蔽より失敗を悪と考える
会社組織などでは失敗すると出世できないというのもあるでしょう。そのせいでミスや失敗を隠蔽する傾向にあります。
一度隠蔽し始めると、次々と隠蔽することになり、隠蔽に対する罪悪感も薄れていき、隠蔽体質が出来上がってしまいます。しかし、隠蔽には限界があり、最終的に弾けて大きな事件となるわけです。
粉飾系の事件はその最たる例。どうしてここまでなった?と傍から見ると思いますが、当事者たちは隠蔽に対して悪いこととは思っていません。ミスや失敗が発覚することの方が悪いと考えているわけです。
正直、個人的には隠蔽の方が圧倒的に悪いと思っていますが、一般社会ではそうではありません。
隠蔽されることで失敗からの学びが消える
ミスや失敗が隠蔽される最大の問題点は、そこから学びが消えてしまうということです。
失敗学については多くの人が挑戦していますが、うまく活用されている事例をほとんど聞きません。
ある程度失敗のデータベースはあるものの、結局、それもフィルタリングされて出てきたものだからです。
実際には隠蔽されているミスや失敗が数多く存在し、それらの情報があって初めて失敗の分析ができるようになります。
しかし、ミスや失敗を公にしようと会社が取り組んでも、一向に情報は出てきません。なぜならば、ミスや失敗の情報を出したら、給与や昇進に影響が出ると社員は思うからです。当たり前ですよね。
たぶん今後も当分は失敗学についてフォーカスが当たることはないでしょう。
なぜならば本来あるべき姿は、社長が率先して自身のミスや失敗を社員に公開すべきだからです。当然会社を牽引する役員たちも。ミスや失敗をしたことが無い人など存在しないので、必ずあります。間違いなくあります。でも、彼らは一生公開しないでしょう。なぜならば、自分たちは成功者だと思っているから。まさに「勝者になっても何も得られず」なわけです。
いつの時代もそうですけどね。