目次
商品を勧めてくる会合
以前、飲みに行ったときの話なのですが、そこでとある商品を勧められました。
そこに参加している人は、みんな買っていて、絶対おすすめだから買うようにという感じ。
買わないと、たぶん、その会には今後参加できないわけではないですが、参加しづらいだろうなと。
1回目は理由をつけて回避したのですが、2回目はさらに多くの人からプッシュされ、うーむと思ってしまいました。
言ってしまうと、同調圧力かなと。
商品を買わない人がいても良いじゃないかというのが個人的な考えですが、それは許されないだろうし、きっと商品の感想も良かった以外に、言えないだろうなとも考えています。
で、こういう同調圧力って、結構無意識に行われているんだよなあと、ちょっと怖さを感じました。
自分自身も無意識にやってしまうことがあるだろうなと。
なので、自戒を込めて書いてます。
若い時は同調圧力なんぼのもんじゃい!って感じだった
自分が若い時は、正直、同調圧力なんて、なんぼのもんじゃい!って感じだったというか。
納得いかないことについては、何にでも噛みついていた狂犬みたいな存在でした。
ただ、歳のせいなのか、経験を積んだせいなのか、社会に染まってしまったせいなのか、まあ理由はいろいろとあるでしょうが、波風を立てないようにするというワザを習得したこともあって、同調圧力を跳ね返すだけのパワーが無いなと。
なので、たぶん、その商品を買うことになると思います。
言ってしまえば、これは愚痴だなとも思ったり。
宗教っぽさを少し感じてしまった
個人的に、その飲み会は、参加していて楽しいなあとも思っていたのですが、次回も同じような感じだったら、ちょっと自分のスタイルというか、考え方とは合わないかなあという気もしていて、少し迷い気味でもあります。
というのも、なんだか、宗教っぽさを感じてしまったからです。
どのような集団であっても、その集団の中で、パワーバランスみたいなものは発生してしまいます。
それは仕方がないことなのですが、パワーが強い、つまり発言力が高い人の意見が是とされると、ちょっと辟易してしまうなと。
それが、個人的に感じている宗教っぽさです。
神様を信じるとか、経典がどうだとかいう話ではなくて、発言力が高い人の意見に多くの人が同調してしまい、それ以外の意見が封殺されてしまうという話。
多様性ってなんだろうね
実は、一番怖いなと思ったのは、その会合の参加者の方々は、「多様性を重視している」んですよね。
これもよくある話で、多様性を押し付けることで、多様性が無くなってしまうというパラドックスです。
つまり、多様性を重視していると言いながら、自分たちの色に染めようとしている感じ。
まあ、今の時代、多様性を重視していることが、かっこよいというか、スタンダードというか、なんというか、それももしかすると、同調圧力的なものなのかもしれないけど。
あくまで、個人的な考えですが、多様性って重視するとかそういう話じゃなくて、受け入れることかなと思っています。
多様性の時代というのは、言いかえれば、他者を受け入れる時代とも言えるかなと。
ただ、その実践は難しいようにも思っています。
自分もちゃんと実践できているかと言われれば、全然なので。
対等な関係で相手を受け入れる必要がある
人間の基本的な心理として、自分を受け入れて欲しいというのはあっても、他者を受け入れたいというものがないと個人的に思っているいます。
というのも、他者を受け入れるって、一歩間違うと、相手の言いなりで、隷属することになってしまうため。
隷属だと、多様性的な他者の受け入れではないのですよね。
あくまで、対等の関係において、お互いに相手を受け入れる必要があるという感じ。
うん、実現はかなり難しいかなと。
そういう相手に出会うことができたら、それはとても貴重なことだと思います。
きっと手放してはいけない人間関係というか。
ただ、自分だけがそう思っているだけかもしれないので、それもまた難しいところだなと。
対話して伝え続ける、相手の話を聞き続けるしかないのかも
結局、できることって対話しかないのかもしれません。
自分の思いを伝えて、相手にも思いを伝えってもらう。自分の話を聞いてもらって、相手の話も聞く。
その対話の中で、ズレがあることを確認するしかできないというか。
そのズレを解消しようと思っても、それ自体が相手に対する強制になってしまい、それは多様性、他者の受け入れでは無いようにも思うし。
「対話できる関係」が大切なのかも
そう考えると、「対話できる関係」自体がとても大切なのかも。
人間は変化していくものだし、そもそもあらゆる物が変わっていきます。
まさに諸行無常は真理。
だから、変化していくものに価値を感じると、相手が変化して価値が変化したときに嫌になってしまうというか。
例えば、同じ趣味に価値を置いた場合、一生、同じ趣味を続けていければ、問題ないのでしょうが、趣味が変わった時に、価値が無くなってしまうという話。
でも、「対話できる関係」であれば、どんなに変化しても関係性を保てるのかもなあとか。
考え方が変わろうとも、価値観が変わろうとも、見た目が変化しようとも、お互いに「対話できる関係」で居続けることができれば、対話することを重視するのであれば、良好な関係を続けられるのではないかという話。
そもそも私たちは何を愛しているのか?では、答えが出なかったのですが、もしかすると「対話できる関係」が、愛と関係している可能性もありそうかなと。
愛とは何か? 愛は計測できるか?〜時間ベースで愛を考えるでは、「愛とは相手に対して費やすことのできる時間」と書いたのですが、この費やすことができる時間というのは、単純に相手を思う時間ではなくて、対話に費やすことができる時間なのかもしれないとも思いました。
もう少し踏み込んで言えば、「対話する時間を最優先する関係」かもなあと。
ちょっと話がとっ散らかってしまった感はありますが、結局同調圧力に対して違和感というか、嫌な感じがしたのは、対話を拒否されているからなのかもなあと思ったり。