
思ったことをつらつらと。
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AIみたいだと言われる
最近、「AIみたいだ」と言われる。
自分から感情を感じられないという話。
確かに、自分は感情の起伏が激しくないところはある。
ただ、感情はある。
けれど、その感情が0に収束するのが早いというか。
イラッとしても、すぐにそのイラッが収束して、普通になる。
だから、感情はあるのだ。
すぐに0に収束してしまうので、怒っているように思われない。
で、AIみたい。感情が無いみたいという話。
これは正鵠を射ている。
感情を出すのが難しい
感情を出すのを、無意識に押さえている傾向がある。
それは、人から嫌われたくないという感情から。
で、感情を出す練習をしている。
ところがなかなかうまくいかない。
指摘された点でもあるのだが、結局、感情を出すという行為をシステマティックにすると、それがまたAIみたいでもあるからだ。
これも鋭い指摘。
グサグサと心に刺さる。
最近、「感情を出したほうが好かれる」という本も読んだ。
そして、こういう知識ベースというか、情報を取得する行為もまた、何かズレてるのかもなとも思う。
報告は必要ない
仕事では報連相は必要だけれど、プライベートの人間関係においては、報連相はそこまで必要ない。
報告したところで、相手は何を返せばよいのかわからない。
そういうことを言われた。
その時、自分が最初に思ったのは、関係している話だから、情報は伝えた方が良いということ。
で、一旦踏みとどまる。
果たして、それは本当に言いたいことなのだろうか?
自分の感情を理解して欲しい
シャワーを浴びて考える。
ああ、違うなと。
そういうことじゃないだと思った。
本当は自分の感情を理解して欲しいんだと気付いた。
それに対して共感して欲しいということ。
仲間だと確認したいというのが根っこにあるのかもしれない。
感情を出すとは、理解して欲しい、共感して欲しい
いろいろなことが繋がった気がする。
感情を出すというのは、理解して欲しい、共感して欲しいなんだ。
48歳にして、学ぶ。
そして相手が感情を出してきたら、理解して欲しい、共感して欲しいだから、理解すること、共感することが基本になるのだろう。
怒りは理解されないことへの反発
もちろん、感情と感情がぶつかることもある。
怒りがその典型例な気がした。
感情と感情がぶつかるというのは、結局、お互いに理解して欲しい、共感して欲しいのぶつかりあいで、お互いに理解も共感もできない、またはしようとしてない状態なのだろう。
一方的に怒っているときも、きっと同じで、理解を放棄しているのかもしれない。
ただ、要求をのませたいだけの場合もある気はするが。
好きと言いにくいのは理解、共感が得られるかわからないから
相手に好きと言いにくいのは、好きという感情に対して、理解、共感が得られるかわからないからなのだろうなと。
振られるというのは、相手がこちらの気持ちを理解、共感していないということ。
理解、共感していたとしても、受け止められないというのもあるかもしれない。
だから、人間関係はそこで終わる。
人は理解、共感されたい生き物だから。
理解も共感もされない人といっしょにいるのは、苦痛でしかな無いだろう。
感情が未来予測における差分だとすると、将来的に理解、共感が得られるのであれば、関係性の継続は可能なのかもしれない。
うーん、わからんな。このあたりは、別途考えたほうが良さそう。