30歳から読む呻吟語 不遇・逆境なんかに絶対負けない! – じっとこらえて辛抱するか、一時の激情に駆られて発するか。この選択は禍と福との分かれ道になる

投稿者: | 2024年11月12日

評価・レビュー

☆5/5

呻吟語(しんぎんご)とは明代の儒学者・哲学者である呂坤(雅号は新吾、以下、呂新吾)の言葉をまとめたものです。

呻吟とは病気の際のうめきのことで、うめき声のように心の中の良心から出た言葉という意味のようです。

性命、存心、倫理、談道、修身、問学、応務、養生、天地、世運、聖賢、品藻、治道、人情、物理、広喩、詞章の全17章からなり、本書ではそこから言葉を抜粋し、著者による訳と著者の考えが付記されてています。

全体として、人としてのあり方がメインで、一角の人物とはどのような人物か、聖人や君子とはどのような人物かといったことから対人関係まで、様々な表現で心に問いかけてきます。

個人的に中国の古典系の書物は結構好きで、読んでなくても名前ぐらいは知っていることが多いのですが、呻吟語も呂新吾も初めて知りました。

なので、そこまで期待はしていなかったのですが、非常に示唆に富んでいて、心に刺さるというか、耳に痛い言葉もあって、改めて心を引き締めようと思う内容です。

呻吟語については、他にも書籍があるので、本書である必要はありませんが、自身の行動を振り返る意味でも一度読んで欲しい一冊。きっと、気が引き締まると思います。

以下は、本書を引用しつつ個人的なメモです。

頭の良さはたかだか第三級の資質

深みと厚みと重みがあるのは、人間としての第一級の資質である。物事にこだわらず大きな器量があるのは第二級の資質である。頭が良くて才があり、さらに雄弁であっても、それはたかだか第三級の資質にすぎないのである

最近、頓に思ったのは、議論という名の人と人との言い争いが、多い気がするということ。

そして、その言い争いは、相手を論破したり、相手を卑下したりすることが目的になっていることが多い気がしています。

言い争いがコンテンツになっているというか。

で、相手を論破することによって、自分たちの方が正しいに加えて、自分たちの方が賢いということを証明しようとしている風に、個人的には見えてしまっています。

そのような風潮が悪いとは言いません。エンタメ的な面もあるので。

ただ、そこに拘泥してしまうことが、少し不安を感じるというか、心がざわついている自分がいます。

これは自分が歳を取ったからかもしれませんが、呂新吾の言葉のように、頭が良いことは第三級の資質で、それ以上に深みや厚み、重みのある人物や、大きな器量がある人物の方が資質として高いというのは、腹に落ちるんですよね。

呂新吾は別に知識が無い方が良いと言っているわけではありません。なので、言葉の意味としては、頭が良いだけは第三級の資質というのが正しいのかもなあと。

頭の良さに加えて、人間として深みや器量の大きさを見せることが、重要という話です。

自分が若い時は、特に自分の正しさを証明することに躍起になっていた感がありました。しかし、歳をとってから振り返ってみると、正論パンチによって必ずしも良い結果を生むわけではないことをヒシヒシと感じます。

人望が集まる人の考え方という書籍に、

反対意見を持つ人を論破したくなるのが自然な衝動だが、本来の目的は相手を説得して賛同を得ることだ。

という言葉があり、これがかなり的を射ているじゃないかなと。

また、相手を論破することに執心してしまうのは、もしかすると童心的なものかもしれません。

呂新吾の言葉に

ひとかどの人となるためにもっとも阻害要因となるのは童心である。これさえ卒業できれば、たちまち立派な人となれるだろう。童心とは何か。それは炎のように燃える競争心、驕り、人を見下すこころ、華美にあこがれるこころ、あせるこころ、浮わつき浅はかなこころ、名誉や評判を願うこころ。これらが童心にほかならないのである

というものがあり、自分の若い頃を思い返すと、非常に当てはまるなあと感じました。

堪えるか、発するか

じっとこらえて辛抱するか、一時の激情に駆られて発するか。この選択は禍と福との分かれ道になる

この言葉も非常に身にしみます。

近年ではアンガーコントロールという言葉が流行っているように、怒りというのはあまり良い結果を生まないので、自分でコントロールしようという風潮です。

自分は比較的、怒らない性格ではありますが、それは歳を取ったことも影響しているかなと。

若い頃は、誰彼構わず噛みついていたので(笑)

これは個人的にですが、感情とは「未来予測と現在の差分で発露するもの」ではないかと考えています。

そして、怒りとは、自身の未来予測に対してのマイナスの結果との差分で発生するものという考えです。

また、マイナスの差分が発生した場合に、他の感情が発露することもあります。悲しみとか苦しみとか。

で、怒りの場合は、マイナスの差分の原因を外部に求め、外部要因を強制的にコントロールするために、発露する感情ではないかなと思っています。

この外部要因を強制的にコントロールしようとすることが、怒りが良くないと言われる原因なのかなと。

強制的にコントロールしようとすれば、相手からは当然反発があります。

当然、怒りよって、ある程度、相手は言うことを聞く場合もありますが、それは表面上のこと。

なので、怒っても根本的な解決にはなっていないんですよね。

長所をひけらかさない

自分の長所は、なるべくひけらかさない。そうすれば、懐の深い人間になることができる。他人の短所は、できるだけ暴かない。そうすれば、器の大きい人間になることができる

非常に耳に痛い言葉。

自分がこれまで行ってきた実績や、自分が得意なこと、知っている知識などは、ついついひけらかしたくなってしまうものです。

自分は聞かれたら答えることは多いですが、普段はあまり自分から率先して言うことはありません。

ただ、お酒を飲んで酔ってしまうと、ついついペラペラと喋ってしまうことがあって、だいたい翌日に反省してます(笑)

就職の面談とかで、自分の凄さをアピールするのは良いと思いますが。

人を責めず、理解する

人を責めない。これが修養の第一のコツである。人を理解する。これが自分の器を大きくする第一のコツである

何か問題が発生した時、失敗を人に求めがちです。

しかし、人間は失敗するもの。そこを責めても仕方がないのかなと、自分も考えています。

西野亮廣さんの夢と金という本でも、

世の中にヒューマンエラーはない。あるのはシステムエラーだけだ。 「人に失敗をさせるシステム」にこそ問題がある。  なので、個人を吊るし上げたところで事故の「原因」は取り除けない。  事故の「原因」を取り除かない限り、また同じ事故が起こる。

という言葉があり、失敗の原因を人ではなくシステムに求めるのが正解かなと。

例えば、タスクを忘れがちという失敗なら、チェックリストを作るといった感じです。

システムというと、ITみたいなイメージがありますが、そうではなくルールや制度もシステム。なので、チェックリストもシステムです。

で、これは自分自身のことにも言えるのかなと思っています。

失敗した時に自分を責めるのではなくて、システムに原因を求めれば、少しだけ心が軽くなるかなと。

と言っても、なかなか難しいのですが。自分は結構、失敗すると落ち込む方なので。それは自分自身への期待でもあり、能力を過信しすぎていたことに対する差分でもありますが。

ただ、そうであったとしても、大切なのは次に失敗しないことかなと。

また、前述したように今の時代、論破するというのが、流行っている感もあって、そんな時代に対する言葉でもあるように思います。

反対意見の人に対して、間違った言い回しがあったとしても、その人を責めず、まずその人を理解することに努めれば、もう少し建設的な議論の場が作れるんじゃないかなと。

道を深く理解している人は語ることがわかりやすい

道を深く体得している人ほど、語ることが単純でわかりやすい。ああだ、こうだと回りくどく、むずかしいことをいう人ほど、道を体得することが浅い

いやあ、本当に痛いところを突いてくるなあと。

自分はついつい書きすぎてしまうことが多くて、回りくどい言い方をしたりしていまいます。

なるべく、わかりやすいようにと思っても、言葉が多すぎるというか。

道を体得するには、まだまだ先が長そうです。

自分とは違う考えだからこそ、客観的に見える場合もある

過ちを指摘してくれるのは、必ずしも過ちのない人とは限らない。過ちのない人にしてほしいと考えているようでは、一生かかっても過ちを直すチャンスはないだろう。相手がどんな人間であれ、過ちを糾してもらえるのは幸いなのである。感謝すべきである。相手に過ちがあろうとなかろうと、そんなことを気にする暇などないのだ

過ちをした人というのは、低く評価されがちです。

ただ、過ちがあったとて、その意見が常に間違っているとは限りません。

人間は自分本位というか、自分自身が正しいと考えがち。

いくら客観視の能力を鍛えたとしても、主観の力はとても強いです。というか、そもそも主観を取り除いたら、本人ではないので・・・。

なので、どのような人であっても完全な客観視はできないでしょう。

だからこそ、自分以外の誰かの意見というのは大切なのかと。

その意見を言った人が、過ちを犯した人であれ、自分に常に反対している人であれ、考え方や価値観が違う人であれ、一考する意味はあると自分は考えています。

もちろん、単純に相手を貶めようとしている人もいるので、何でもかんでも言われたことを糾すというのは違うでしょう。

なので、セカンドオピニオンではないですが、指摘されたことについて、その人以外の意見も聞いてみるというのが一番かなと。

そうすることで、複数の視点から見ることができ、より正確に状況を知ることができるでしょう。

そう考えると、何でも言ってくれる友人の存在というのは、とても大切なのだと改めて思います。

過ちを認めないことは過ちを重ねることになる

過ちを犯すことは第一の過ちである。犯した過ちを認めない。これは第二の過ちである。一度過ちを認めれば、二つの過ちが消えてなくなるが、認めなければ二つの過ちは免れない。言い訳ばかりして過ちを認めない人は、いったいなんのためにそうするのであろうか。

欧米的なビジネスの考えが広まったこともあってか、謝ることは悪という風潮が少し前まであったような気がしています。

謝るということは、非を認めることで、相手に有利な状況になるからです。

しかし、それはその場だけの話なのかなと。

過ちを認めなければ、信頼を失ってしまいます。

呂新吾の言葉のように、過ちを犯した上に認めない過ちを犯せば、二つの過ちになるため、信頼を倍で失うとも言えるでしょう。

過ちをちゃんと認めれば、過ち自体は残るものの、少なくとも信頼の面では、マイナスにならないというか、むしろプラスに捉えてくれる人が多いのではないでしょうか。

それは長期的にはプラスに働くと自分は考えています。

なので、過ちを犯してしまったら、それを認め謝ることが大切じゃないかなと。

貧しさに負けて志をなくしてはいけない

貧しいからといって恥じることはない。恥じるべきは貧しさに負けて志をなくすことである。

中国の古典を読んでいると、同じような言葉が多いように感じます。

貧しさとは富貴にあらず、心にあるという感じでしょうか。

これを酸っぱい葡萄という捉え方もできますし、負け犬の遠吠えと感じる人もいるかなと。

つまり、財を成していないから、そうやって自分を慰めているだけなのだという感じ。

まあ、そういう考え方もあるとは思います。

ただ、これは私自身の考えですが、自分は人間であることが、生きていく上で大切なことかなと考えています。

で、人間の本質とは何か?と言われた時、それは「考えること」なんじゃないかなって。

別に難しいことを考えるという話ではなくて、悩みも考えることに入ると思いますし、今日の晩ごはんをどうしようか?というのも考えることです。

そうやって、日々何かを考え、決断し、行動することが人間の人間たる所以というか。

最近はAIの進化が凄まじく、人間のような文章をサラサラと書くことができる時代になりました。

しかし、AIには考えることはできません。

AIがやっているのは、膨大なデータから、最適解を出しているだけです。

そこには何の考えもないのです。

だから、現状では「考えること」がAIと人間を分かつ点なのかなと。

志というのも、人間が「考えること」で生まれます。

また、植物状態のようにならなければ、どんな状態であったとしても、「考えること」は可能です。

世界的な物理学者ホーキング博士なのはその最たる例でしょう。

なので、自分としては、貧しさとは「考えること」をやめてしまうことなのかなと思っています。

と、他にもたくさんの良い言葉があるので、呻吟語はぜひ一度触れてほしいと思いました。

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