善悪の彼岸 – 長いあいだ深淵を覗きこんでいると、深淵もまた君を覗きこむのだ。

投稿者: | 2024年12月18日

評価・レビュー

☆5/5

いろいろと表現は訳によって変わりますが、『長いあいだ深淵を覗きこんでいると、深淵もまた君を覗きこむのだ。』という有名なフレーズが収録されているニーチェの哲学書です。

個人的に感じた全体感としては、「自尊心を満たしたい魂の叫び」的な印象を持ちました。

あと、ニーチェの特徴である詩的な表現というのが非常に多くあり、自分としてはそこが難解というか、伝えたいことがわかりにくくなっているように思います。

後述しますが、「すべての深い思想家は、誤解されるよりも理解されることを恐るものだ。」という言葉があって、これはニーチェ自身のことも含めた言葉なのかもしれないなと。

そして、「詩人たちは自分の体験を恥知らずに扱う。」という言葉もあって、そのあたりがまた本書の面白さなのかもしれません。

偉い学者先生の解釈はあまり知りませんが、世界はどう解釈するかにすぎない、解釈によっていくらでも変化するみたいな感じでニーチェは考えていたのかなと。

で、様々なものを否定、見下すことによって、結果として自分自身の考えを伝えようとしている感じ。

ただ、ニーチェ自身の考え、つまり解釈も1つの解釈でしかなく、それは過去の解釈も含めてそうで、だから新しい時代の哲学者よ、何かに固執するな的な考えもあるんだろうなと。

この解釈次第というか、どう解釈するかでしかないというのは、個人的にも結構共感できるなあと思いました。

このあたりは、人によっていろいろと考えはあるだろうなと。

その一方で、随所にニーチェ自身が自分を認めて欲しいのではないか、もっと自分は認められて良いのではないか?と思われるような言葉がいくつか感じられました。

あくまで個人的にですが、それが全体感としての「自尊心を満たしたい魂の叫び」ということです。

単純に持論を展開するのではなくて、そこにニーチェの魂というか、ニーチェ自身の人間性みたいなものが出ているという感覚です。

当時と今では状況も違うので、それもあるかもしれませんが。

また、本書は、「ツァラトゥストラはこう語った」「善悪の彼岸」「道徳の系譜学」という一連の流れで読むと良いようです。

自分はまだ「ツァラトゥストラはこう語った」は読んでいないので、機会を見つけて読んでみたいと思います。

個人的には読みにくさはあったものの、鋭い指摘も多く、また短い箴言も多数収録されており、その部分は非常に刺さる内容が多かったです。

なので、詩的な表現などは、あえてわかりにくくしているのだろうと思います。

読み切るのに時間はかかりましたが、非常に面白い内容でした。また、歳を取ったら読んでみようかなと思います。

以下は、本書の内容を引用しつつ、個人的なメモです。

生きるとは自然に反すること

生きるとはまさに、この自然とは〈違ったものとして存在しようとすること〉ではないのか。生きるということは、評価すること、選り好みすること、不正であること、限られたものであること、関心をもとうと[違ったものであろうと]欲することではないだろうか?

生きるとは何か?

このテーマは、今後もずっと語られ続けるだろうなと思います。

そして、答えが無い問題だとも個人的には考えています。

正確に言えば、人によって答えが違っていて、唯一絶対的な答えが無いというのが自分の考えです。

つまり、解釈次第という話でもあります。

自分の場合は、科学信奉者というとちょっと語弊があるかもしれませんが、考え方のベースに科学を置いています。

なので、人間の解釈に絶対的なものは無いかなという立場です。

もう少し言葉をつけ加えるならば、生きるとは何か?に意味は無く、人間が意味を付与しているにすぎないということ。

物理学とは世界を解釈し整理するもの

物理学とは世界を説明する学問ではなく、たんに世界を解釈し、整理するものにすぎない

この部分については、個人的にニーチェをの考えとは違います。

そもそも科学においては、解釈という考え方はありません。

科学のベースは再現性。同一条件においては同一の結果になるということです。

様々な現象を整理しているに過ぎません。

もっと具体的に言えば、リンゴが木から落ちた時に、その現象の解明しようとしているだけで、リンゴが木から落ちたという現象に解釈は存在しないということです。

解釈は人間が物事の意味を理解することですが、そこに意味は無いんですね。

もっと言えば、法則しかありません。それは無味乾燥したものですが、正直言えば、それ以上でもそれ以下でもないかなと。

注意点というか、誤解のないようにしてほしいのは、そうは言ってもその原理を解明しようとしているのは人間であり、どうやっても解釈は入ってしまうということです。

そういう意味で、世界を解釈するというのは、正しい言い方だと思います。

実際に、多くの物理学者が世界を解釈しようとして、間違った理論を提唱することがしばしばあります。

ただそれは、物理学の歴史であって、物理学そのものではないかなというのが個人的な感覚です。

また、解釈から生まれた新たな発想によって、物理学が発展してきたのも事実かなと思います。

思想とは

思想というものは、「それ」が欲するときだけにわたしたちを訪れるのであり、「われ」が欲するときに訪れるのではないということだ。だから主語「われ」が述語「考える」の条件であると主張するのは、事態を偽造していることになる。〈それ〉が考えるのである

〈それ〉というは、フロイトも影響を受けた「エス」という考え方です。

人間はこの「エス」によって、突き動かされているという話。その「エス」が一体何なのかは、明確な答えがありません。

フロイトは、生まれながらに備わっている本能的欲求的な感じで、人間の精神を「エス」「自我」「超自我」の3つに分けて考えています。

が、これが正解かどうかについては、正直、わかっていないというのが現状かなと。

ただ、少なくとも人間はDNAによって設計され、そのDNAによって刻まれた本能は存在することは間違いありません。

あくまで個人的な解釈ですが、一番わかりやすいと思う例は、赤ちゃんが生まれた時に泣くこと。

一切何も無い白紙の状態であれば、そもそも泣く必要がありません。

ミルクを飲んで泣き止むことも無いでしょう。

つまり、何らかによって、赤ちゃんは反応をしているわけです。この反応が本能的な何かと言えるのかなと。

単純に泣くだけでなく、成長していく中で、様々な本能的なものを我々は目覚めさせていきます。

すべてはDNAの設計図による賜物です。そう考えると、「エス」の本質というか、「エス」というのはDNAのことなのかもしれません。

と、話がそれてしまいましたが、個人的に「われ」というのは、「エス」とは別物だと考えています。

確かに、「われ」は「えす」の影響を受けてはいますが、その影響を大きく受けるのは、自己や自我の確立の前までかなと。

この自己や自我の確立がうまくできないと、「エス」の影響、またフロイトのいう「超自我」などの影響を多分に受けやすくなるという感じです。

自己や自我の確立がうまくいった人間は、本能的な「エス」や無意識の「超自我」の影響があっても、「自我」によって判断ができるようになると個人的に考えています。

それは理性的な人間と言うことができますが、この理性的な人間というのは、道徳や倫理観、ルールなどに厳格な人間ということではなくて、自分で選択ができる人間という意味です。

もう少し言ってしまうと、理解したうえで「エス」や「超自我」の意見を採用するという感じでしょうか。

このあたりは改めて書こうかなとも思います。

万人向きの書物は悪臭を放つ

万人向きの書物とは、つねに悪臭を放つものだ。
矮人のような臭気がこびりついているのだ。
大衆が飲み食いする場所は臭う。
礼拝をする場所までもがそうである。
きれいな空気を吸いたいときには、協会に入ってはならない。

なかなかに強い言葉だなと思いました。

個人的な理解としては、万人向きの書物は、いわゆるコモディティ化、一般化されてしまっていて、そこに考える余地のないものであり、わざわざそれを読む必要はないという感じなのかなと。

また、礼拝について書いているのは、神は死んだという言葉があるように、宗教、主にキリスト教に対する否定でもあると思います。

本書でもそのようなキリスト教批判的な内容は多く、ニーチェの信念というか、軸の根本にある考え方なのだろうと個人的には感じました。

若い頃の行動の代償

若い頃には、ニュアンスを嗅ぎ分けるという人生の最善の収穫である技も知らずに、尊敬したり軽蔑したりするものだ。
そしてそんなふうに人間や事物をむやみと肯定したり否定したりすることの償いを、手酷く払わされるのである。

「手酷く」は「てきびしく」と読ませるようです。

この言葉は、個人的には非常にぶっ刺さりました(笑)

今の自分がニュアンスをしっかり嗅ぎ分けられるようになったとも思いませんが、若い頃の自分はあらゆることに噛みついていた気がします。

何かを否定することで、自分自身を確立しようとしていたというのが個人的な理解です。

若気の至りとでも言うのでしょうか。

そのせいで、いろいろなことを遠回りしてしまったことは間違いありません。つまり、手酷く払わされたということです。

ただ、非常に難しいのは、そのような期間があるからこそ、自分自身を確立でき、そして今があるとも言えます。

もし、若い頃から良い子として過ごしていたら、きっと今もその枠の中で、楽しく生きていただろうなという思いと同時に、考えることをしなくなってしまったかもしれないなあとも思うわけです。

人は失敗しないと学ばないとも思っていて、手酷い結果があったからこそ、改善できたこともあるなあという話。

この世界は虚構か

わたしたちに何らかのかかわりのあるこの世界が、
ーー虚構であってならないわけがあるだろうか?

この言葉を読んで、多くの人が映画 マトリックスを想起したのではないかなと。

ふと、この世界が虚構であることを証明する方法って、何かあるのだろうか?とも思いました。

これもちょっと改めて考えてみたいなと。小説のネタとしても面白そうな気がします。

我々は時間の矢が存在する3次元世界にいて、それ以上の次元を感知することはできないため、高次元の世界から見たら、もしかすると我々の世界で言う、クウォークぐらいの存在なのかもしれないなということ。

また、最近では多世界解釈が流行っていて、パラレルワールドが存在するんじゃないかという話も出てきています。

これはSFではなく、実際の物理学の話です。

パラレルワールドが存在する場合、非常に多くのというか、無限の世界が存在し、我々はその1つの世界の住人でしかありません。

世界線なんて話がSFでは出てきますが、もしかすると1つ軸となる世界線があって、我々はそこから分岐した世界と考えれば、それは虚像と言えるのかもなあとかぼんやり思いました。

この軸となる世界線という考え方も、なんか小説のネタになりそうだなと思ったり。

深淵は深き者のためにある

偉大なことは偉大な者のためにあり、深淵は深き者のためにある。
繊細さと戦慄は、繊細な者のためにある。
要するに、すべての稀少なものは、稀なる者のためにあるのだ。ーー

これは解釈の仕方にもよるのだと想いますが、個人的にはこのあたりが、何となくニーチェ自身の本音が出ているところなんじゃないかなと思ったり。

自分はわかっている人間であり、自分の言葉を理解できないのは、そもそも資格が無いとも取れるかなと。

つまり、自分の言葉が理解されないのは、自分のせいではなく、そもそもテーマが高尚で、高尚な人間しかわからん話なんだということ。

だから、貴方が高尚な人間なら、わかるだろう的な。

ちょっと穿った見方ですが。

その話とは別にして、現代においては、知識が膨大になっていて、すべてを理解することは難しいという状況が発生しています。

わかりやすいのは科学の分野で、昔に比べると分野の細分化が進み、どんどん情報が増えているため、ちょっと違う分野になると、同じ物理学の括りであっても、理解ができないことが増えているということです。

理系の人間ですら、そんな状態ですから、文系の人にとっては、今の理系というか科学の分野はまったく理解できないだろうなとも思います。

そういう意味では、理解できない人には理解できないということなのだろうなと。

ただ、そんな状態であっても、文筆家であるならば、文章で理解してもらうことを諦めてはいけないのではないかなというのが個人的なスタンスです。

神は意志を伝える方法を知らない

神は耳を傾けない。
ーー耳を傾けたとしても、
[人間を]助けるすべを知らないだろう。
最悪なのは、神はみずからの意志を明確に伝える方法を知らないといことだ。

個人的に思わず吹き出して笑ってしまった言葉。

こういう指摘というか、皮肉というか、表現は、本当にニーチェの素晴らしいところだなあと思います。

神を否定しながらも、神を引用に出し、そして神を否定するという。

「神はみずからの意志を明確に伝える方法を知らない」は個人的に神フレーズです。

一人だけを愛するのは野蛮な行為

ある一人のひとだけを愛するというのは、野蛮な行為だ。他のすべての人々への愛を否定する愛だからだ。ただ一人の神への愛も同じようなものだ。

一夫一妻制の社会に対するアンチテーゼでもあり、キリスト教への批判でもあるのかなと思います。

「汝隣人を愛せよ」という言葉に対する皮肉でもあるのかもしれません。

まあ、愛するという定義にも寄るのかなと。

不倫は文化なんて言葉がありましたが、一人だけを愛するのが野蛮であれば、複数人を愛するのは文化的であり、ある意味、的を射た言葉なのかもしれません。

記憶が譲歩する

「わたしはそれをやった」とわたしの記憶が語る。
「そんなことをわたしがしたはずがない」とわたしの誇りが語り、
譲ろうとしない。
ついにーー記憶が譲歩する。

記憶が譲歩するという表現は秀逸だなあと。

人間は誰しも勘違いをすることがあります。それは仕方がないことです。

ただ、この言葉のように、自分の記憶を譲歩させるというのは、あまり良くないことかなと。

また、記憶にございませんというのも、ある意味、記憶が譲歩しているとも言えます。

本当に覚えてないなら良いのですが、覚えていたり、思い出したりして、自らの記憶が間違っていたら、それをちゃんと言うべきなんじゃないかなというのが個人的に思うところです。

正直、記憶を譲歩させまくると、何が本当なのかがわからなくなってしまいます。

そして、そんな人が国を動かしていると思うと、ちょっと怖くないですか?

女性が憎む感情を覚えるのは

女が憎むということを覚えるのは、人を魅惑することをーー忘れ始めるときだ。

これは今だと女性蔑視的な発言でもありますが、時代背景もあるだろうなとも思います。

ただ、個人的には結構本質を突いている言葉のように感じました。

それは女性というだけでなく、男性についても同様に言えることかなと思ったからです。

端的に言えば、異性から性的な魅力を感じてもらえなくなったら、人は憎しみという感情を生み出すということ。

男性の場合で言えば、「ただしイケメンに限る」という言葉がわかりやすいですよね。

自分が異性から性的な存在として認めて貰えないことを、憎しみの言葉で返しているように感じます。

実際にイケメンや美少女が、社会において有利である、人生がイージーモードになるというのは間違いありません。

そこで自身の性的な魅力を高めることを諦めてしまう、ニーチェの言葉で言えば忘れてしまうと、異性への憎しみになってしまいます。

大切なのは、歳を取っても自身の性的な魅力を高めることを忘れないことじゃないかなと。

性的な魅力の中でよく言われるものの中に年齢があります。

ただ、個人的に年齢は記号でしかなく、人間的な魅力のある人は、何歳であっても魅力的に思えるものです。

もちろん、80歳になって10代の異性にキャーキャー言われたいというのは、ちょっと違うかなとも思いますが。

男性であっても女性であっても、誰かに求められることは、やはり嬉しいもの。

それが無くなってしまうと、その反動で憎しみが生まれてしまうのかもしれません。

良い評判を得るために

良い評判をえようと、ーー自分を犠牲にしなかった者がいるだろうか?ーー

人によって捉え方は違うと思いますが、個人的には偽善がそうかなと思ったりします。

良い人と思われたいために、良いことをするという感じ。

本当は別にしたくないにも関わらずです。

例えば寄付、つまり自分の資産を誰かに渡すことで、犠牲が発生するけれども、良い評判を得たいので寄付するという感じ。

他にも、自分にとってマイナスがあったとしても評判のためにそのマイナスを飲むケースはあるかなと。

で、そういう行為が悪いかと言うと、個人的には良いと思っています。

偽善って悪いことではないと思っているので。しない偽善よりする偽善という言葉もありますし。

また、そもそも個人的に善というは、「善とは社会の利益追求行動」だと思っていて、社会貢献などがわかりやすい善の形かなと。

さらに言えば、「大人というのは偽善がちゃんとできる人」だと自分は考えています。

善悪の定義については、また改めてまとめて書く予定。

成熟した男性

男の成熟、それは子供の頃に遊びのうちで示した真剣さを取り戻したということだ。

成熟したかどうかはわかりませんが、自分が歳をとった今、自分が本当に好きだったことをもっと若い時にしておけばよかったなと思っています。

今は、勤めることを辞め、日々、やりたいことだけをしていて、それはまさに自分が中学生の頃に楽しかったというか、興味のあったことばかりです。

最近、芸能人の訃報で50代で亡くなる方も多くて、自分もあと3年で50歳になるので、他人事ではないなと思ったら、益々やりたいことは全部やっておきたいと強く思うようになりました。

不道徳を恥じるとは

自分の不道徳を恥じるということ、それは自分の道徳を恥じるにいたる階段の一段を歩み始めたということだ。

これは深いなあと。

不道徳を恥じることで、道徳を恥じることを知るということだと個人的には理解しました。

不道徳は恥じても道徳を恥じるというのは、反しているように思えます。

ただ、そもそも道徳というものが、常に正しいというわけではないと言いたいのかなと。

道徳を疑えという話でもあります。

常識を疑えでも良いかもしれません。

時代の変化によって、価値観は変化していきますし、それにともなって道徳なども変化していきます。

そういう話なのかなと。

正直、法律なども時代によってどんどん変化していく必要があると思っていて、現在話題になっている103万の壁もその1つです。

いつまでも昭和の時代感覚でいることの方が個人的には変ではないかなと思っています。

反証に耳を塞ぐメリットとデメリット

最善の反証にも耳をふさごうと決意することは、強い性格を示すものである。
ときにはそれは愚鈍への意志ともなりうるのだが。

まさに言葉の通りかなと。

反証が正しいときもあれば、反証が間違っているときもあるからです。

その判断は後世の歴史家にしか判断ができないかなと。

個人的に大切だと思っているのは、常に自分自身も疑うということ。

反証をまずは受け入れてみて、自身の決断が正しいのかどうかを定期的に考えるという感じです。

ただ、考えるフェーズを入れるということは、一度立ち止まることでもあるので、歩みが少し遅くなってしまうというデメリットもあります。

なかなに難しいですね。

道徳的な現象

道徳的な現象などというものは存在しない。
あるのは現象の道徳的な解釈だけだ⋯⋯。

もしかすると、本書のすべてを言い表しているのは、この言葉なのかなとも思いました。

すべては解釈にすぎないということです。

これは個人的にもスッと入ってくるかなと。

絶対的な道徳や倫理観、善や悪などは存在せず、それらは常に変動すると考えいます。

なぜ変動するのかといえば、それを人が解釈するからです。

そして人は変化していくもの。結果として、絶対的なものは存在しないというわけです。

肉欲の愛はすぐに終わる

肉欲のためにあまりに尚早に愛が育ってしまうことが多い。
こうした愛は根が弱いまま、すぐに引き抜かれてしまうのである。

個人的には一概にそんなことも言えないのかなと思ったり。

ただ、この文章を読んで、ニーチェってあんまりモテてなかったのかなって思いました。

ニーチェの生涯についてはまったく調べてないので知りませんが、本書でも女性批判が結構目立つ印象です。

「女性が憎む感情を覚えるのは」の項目でも書きましたが、女性に限らず、男性も性的に求められなくなった時に憎しみが発生すると考えれば、ニーチェが女性を悪しざまに批判するのも納得できます。

これは個人的な感覚ですが、女性にモテる人って女性を悪く言わない気がしています。まあ、感覚的な話ですが。

神の言葉

神が物書きになろうとしたとき、ギリシア語を学んだということは味のあることだ。
ーーしかもあまりよく出来なかったということも。

これも思わず吹き出して笑ってしまいました。

哲学書というと、難しい、うんうん考えるようなイメージがあります。

ただ、ニーチェはところどころで、読者をニヤリとさせる言葉が多いです。

それはもしかすると難解な内容とのギャップによって相対的に面白さが増しているのかもしれませんが。

聖書の暗号とか、聖書の言葉が実は〜的な本がありますが、それを予見した言葉でもあるかなと。

つまり、多様な解釈ができるほど、曖昧模糊な表現が多いという話。

称賛され喜ぶこと

称賛されて喜んでみせるのは、気持ちの上で礼儀正しくふるまったにすぎないことが多い。
ーーそれは精神のうぬぼれの裏返しなのだ。

個人的にですが、ニーチェ自身の心の叫び的な印象に受け取りました。

ぶっちゃけて言えば、俺をもっと称賛しろ!という感じ。

どういうことかと言うと、本当は自分も称賛されたいのだけれど称賛されないので、周囲で称賛されている人に対してうぬぼれだと言い放ち、称賛されて喜ぶのは愚かだと非難しているわけです。

これも生前のニーチェがどういう人生だったのかを知らないので、個人的な推測でしかありませんが。

ただ、こういう感情って誰にでもあるのかなって。そう考えるとニーチェも一人の人間というか、ニーチェの人間味を感じることができる言葉だと思います。

自由な同棲関係の崩壊

自由な同棲関係というものも堕落してしまった。
ーー婚姻によってである。

これも爆笑してしまいました。

キリスト教批判的な面もあるんだろうなと思いつつも、下手したら結婚している人を好きになってフラレた腹いせにも思えてしまいます。

わかるよ、ニーチェ。その気持ち、痛いほどわかるよ!というのが個人的な心の叫びです。

また、まったく別の視点で話をすると、日本でも採用されている一夫一妻制って、本当に良い制度なのかな?と。

これは、どのような社会を理想とするか?にも寄るかとは思います。

ちなみに一夫多妻制が良いという話ではないですし、多夫一妻制が良いという話でも無いです。

端的に言えば、社会全体として子どもを育てる社会が理想かなと個人的に思っています。この話題については、また改めて書こうかなと。

見損なったと感じる時

わたしたちがある人を見損なったと感じざるをえないとき、わたしたちは自分が感じた不愉快な気持ちを、無情にもその人物のせいにするのである。

実際に相手の人物が良くない場合もあるでしょうが、自分自身の行動によって相手との人間関係が壊れてしまう場合もあるよなあと。

言ってしまえば、相手に期待して、期待した結果が得られなかった時に、相手のせいにするという話。

これは人間の感情としては、失望や怒りになるかなと。

個人的に人間の感情とはギャップを埋めるためのバランス装置かもと思っていて、そのギャップは「未来予測と現在の差分で発露するもの」なのでは?と考えています。

ここで言う期待というのは、まさに未来予測であり、それがマイナスになったために、ギャップが発生し、失望や怒りの感情が生まれる、つまり正常な状態に戻そうとすして、それが感情として発露するという感じです。

人が自身を神と思わない理由

人がむやみに自分を神だと思いこまないのは、下半身があるからだ。

本当にニーチェの指摘は的確で、思わず笑ってしまうことが多いですね。

私もそう思います。

そもそもエデンでリンゴを食べてしまった瞬間に、私達は下半身の存在を認識したのかもしれません。

知らんけど。

深淵を覗きこんでいると

怪物と闘う者は、闘いながら自分が怪物になってしまわないようにするがよい。長いあいだ深淵を覗きこんでいると、深淵もまた君を覗きこむのだ。

ニーチェの有名な言葉の1つですね。

訳よって言い回しに少し違いがあって、一番有名なのは「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」かなと。

意味としては、「ミイラ取りがミイラになる」が一般的です。それは前の文である、怪物と闘う者は〜に準えているからかなと。

深淵の解釈は、端的に言えば悪なのかなと。他にもいろいろとありますがネガティブなものというイメージです。

ただ、これは個人的な解釈ですが、怪物というのを不道徳と捉えると、「不道徳を糾弾する者は自分が不道徳な者になってしまうことがある」と言い替えられるかなと。

不道徳を糾弾する者は道徳者で、その道徳者が実は不道徳者になる可能性があるよということ。

で、善悪などもそうだし、正義なんかもそうですね。

さらに突っ込んで言えば、絶対的な道徳や善、正義などは存在せず、そこにこだわりすぎると、いつの間にか自分が逆の立場になってしまうという話。

つまり、解釈によって変化するため、絶対的なものは存在しないということなのかなと。

そのことを忘れてはならないと個人的には捉えました。

自分が欲している情報を信じる

隣人を誘導して、ある好ましい意見を語らせる。そのあとで隣人のその意見をしっかりと信じ込む。女性ほど、こうした技に卓越した者がいるだろうか?ーー

これも女性と言及していますが、男性にも当てはまることかなと。

隣人という言葉になっていますが、わかりやすく言えば、自分の理論を補完する第三者に意見を語らせる、または第三者の意見、データのみを引用するという話です。

これは良くある話で、例えば、放射脳が良い例でしたね。

今では笑い草になっていますが、当時は放射能について、自分たちに都合の良い情報ばかりを集め、危険性を訴えている人たちが大勢いました。

例えば、福島の場合、福島第一原発からかなり離れた飯坂温泉のあたりで、高い放射線を検知し、すでに放射性物質は相当な範囲に拡散していると喧伝している人がいました。

しかし、飯坂温泉にはラドン温泉があり、ラドンはそもそも放射性物質です。

つまり、そもそも放射性物質がある場所で、放射線を検知したという話。

ところが、メディアでは取り上げられることはありませんでしたね。

なぜなら、自分たちが報道したいのは、放射性物質が広がっていることであって、それ以外の情報は不要だったからです。

ニーチェの言葉が、心に染み入りますね。

善と悪

ある時代において悪と信じられたものは、かつて善と信じられたものの時代遅れの名残である。ーー古き理想が隔世遺伝したものなのだ。

前述の深淵で個人的に書いた結論と近い内容かなと。

善悪は変化していくもので、その変化に気付けないと、いつの間にか自分が悪になってしまうという話でもあるかなと。

今の時代で言えば、いつまでも昭和的な考えのままでいることが、わかりやすい例かなとも思います。

愛によってなされたこと

愛によってなされたことは、つねに善悪の彼岸にある。

善悪の彼岸にあるかどうかはわかりませんが、少なくとも愛というのは、善悪を超えたところにあるとニーチェは考えていたのだろうと思います。

これは個人的な考察というか、勝手な考えですが、神が死に、信じられるものが無くなった時に、唯一信じられるのが「愛」と考えたのではないか?なと。

そして、それは「エス」によって突き動かされる、人間の根源的なものではないか?と。

だから、自分の愛はもっと受け入れられて然るべきだという結論なのではないかなとか。

まあ、これは邪推かもしれませんね。

人は群れると狂気に走る

個人の狂気はかなり稀なものである。
ーーしかし集団、党派、民族、時代となると、狂っているのがつねなのだ。

人は集団になると、愚かになるというのは、よく言われる話でもあるのかなと。

よく民主主義などが挙げられる気がします。

イギリスの元首相 チャーチルが「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」という言葉を残していますね。

また、専制君主制と民主共和制の対立構造を描いた小説 銀河英雄伝説では、民主主義の最悪なところを非常にうまく描いていて、衆愚政治と言える状態でした。

ただ、個人的にですが、民主主義の方が自ら戦争を仕掛けにくい傾向にはあるのかなとも思っています。

現代においては、ロシア、中国、北朝鮮とも専制君主に近い政治体制になっていて、ロシアは実際に戦争を開始しました。

中国はカウントダウン状態、北朝鮮にしてもいつ動き出すかはわかりません。

ヒトラーしかり、少なくとも1人の強者が生まれてしまうと、戦争をしたくなってしまうのかなと。

このあたりは、もう少し掘り下げて考えてみたいなとは思いました。

まあ、悠長に構えている時間はもしかすると無いのかもしれませんが。

隣人よりも隣人の隣人

「われわれにもっとも近い者は隣人ではない。隣人の隣人である」。民衆はみんなこう考える。

隣人とはトラブルになりがちってことなのだろうなと。

前述の国についても、まさに隣国との軋轢がずっと解消されないままですし。

そう考えると、日本が取る立場って、隣人の隣人である国と仲良くすることしかないんですよね。

本来であれば、韓国とはもっと蜜月の関係になるべきなんですが、隣人というのは、仲が悪くなりがちなのかもしれません。

悲しいですけど。

内密な関係はレアだから価値が高いと感じてしまうのかも

厳格な人間にとっては、内密な関係というのは恥ずべきものである。
ーー同時に貴重なものでもある。

個人的にふと思ったのは、不倫とかそういう話かなと。

真面目な人ほど、不倫は悪い、恥ずべきことだとわかりながらも、不倫してしまうというか、不倫という甘美な蜜に、絡め取られてしまうというか。

それは、不倫がレアなもの、稀少なもので、高い価値、つまり貴重なものだと感じてしまうからかもしれません。

不倫が合法というか、不倫が当たり前の社会をちょっと考えてみると、それほど不倫に対して貴重な感覚を持てないような気がしています。

むしろ、一人の人を愛することの方が、希少性が高くなるんじゃないかなあとか。まあ、そんなこと無いか(笑)

エロスの神は毒を飲まされ堕ちた

キリスト教はエロスの神に毒を飲ませた。ーーエロスの神はそれで死にはしなかったが、堕落して悪徳になった。

これはとても興味深い話だなあと個人的に思いました。

そもそもエロいことが悪いとかタブーなことという概念は、なぜ生まれたのか?という話。

例えば、サルは普通に他のサルがいても交尾しますよね。野生の動物はそうです。

つまり、人間がエロいことに対して、何か意味を見出したから、エロいことが悪いという概念が生まれたのかなと。

それを羞恥心が元になっているという考え方もあると思いますが、個人的には全然違う考えが頭に浮かびました。

それは、モテない人間による復讐なのでは?という考えです。

あくまで、推論というか妄想と考えて欲しいのですが、モテない人というのは、それを認めたくないために、聖職者になったのではないかなと。

いや、聖職者という職業を作ったといっても良いかもしれません。

それは経典でも一緒ですね。モテない奴が宗教を作ったという話。

つまり、モテてる奴が憎い。いっぱいいろいろな人とエロいことしている奴が憎い。

そうだ!一夫一妻制にして、不倫とかは悪にして罰してやろう!というわけです。

もちろん、ここで聖職者が女性を独占するというシステムを考えた人もいる気がします。

しかし、それはまさにカルト教団なんじゃないかなと。

まあ、真相は闇の中ですが、個人的には当たらずとも遠からず的な感じがしています。

このあたり、一夫一妻制がなぜ採用されたのかは一度調べてみたいなと思いました。

自分を多く語る者

自分について多くを語るのは、自分を隠す手段でもある。

いやあ、これはまさに自分に当てはまるなあと思ったり。

単純に人と話すときもそうですが、人狼ゲームをしている時に、人狼側になると自分は饒舌になっている気がします。

気をつけよう。

軽蔑する人を憎まない

軽蔑している人を憎むことはない。
憎むのは、自分と同等の評価をしている人、あるいは自分よりも高く評価している人なのだ。

個人的にはちょっと認識が違っていて、

憎むのは、自分と同等または自分よりも格下の評価をしている人が、自分よりも高く評価されているとき

かなと。

前述した感情ギャップ説にも符合する話。

ふと、今思ったのですが、ロシアや中国、北朝鮮が戦争しようとしている理由もこれかもしれないなと。

長くなりそうなので、ざっくり書くと、自分の国内での評価に納得できず、偉業、つまり戦争で領土を広げることで評価を得たいということ。

なぜ、自国内の評価に納得していないのかと言えば、恐怖政治を敷いているから。

評価はされているけれど、それって俺が怖いからだろ!と自分たちで認識している。だから、満足できない。

また、過去の指導者たちの評価が低く、自分の方が評価が高いと思っているからかもしれません。

愛する対象は

結局のところ人が愛するのは自分の欲望であって、欲望された対象ではないのである。

これも何かニーチェがモテなかったことを示しているような・・・。

「お前たちはモテてる奴に愛されていると思っているかもしれないが、そいつらは自分の欲望を愛しているだけで、お前たちを愛しているわけではない」という話なのですが、その裏には自分はちゃんと貴方を愛していますよという裏返しかなと。

モテている人を見下そうとしているのですが、見下しきれてない感じが、個人的にはヒシヒシと伝わてきました。

だって、ぶっちゃけ格下の取るに足らない存在だったら、どうでも良いし、そもそも言及する必要すらないと思うので。

つまり、モテている人は自分よりも下の評価で、自分がちゃんと評価されていないと感じていて、憎しみが出てしまっているというか。

そう感じたのは自分だけ?

ちなみに、欲望だけを愛する人もいるので、言葉自体が間違っているとは思いません。

虚栄心

他人の虚栄心が、わたしたちの趣味に合わないと感じられるのは、それがわたしたちの虚栄心とぶつかるときだけだ。

虚栄心によるマウントの取り合いって、確かに良くあるなと。

以前、赤坂に住んでたとき、家はオートロックで〜と家自慢を被せられたことがありました。

ぶっちゃけどうでも良いなあと思って、その人の前では、話すときに注意するようになったでござる。

誠実な人

「誠実さ」についてだが、おそらく誰も十分に誠実であったことはない。

これもわかるなあと。清廉潔白な人はいないという話。

で、片付けたかったんですけど、これはニーチェ本人にも言えることかなと。

特に女性に対しての物言いについては、もっと素直に語ったほうが良いのではなんて、余計なお世話ですね。

人権侵害

賢明な人は愚かなことをしないものだと人々は信じている。
これは何という人権侵害であろうか!

これは至言。単純に賢明な人も愚かなことをするというのは、当たり前なのですが、それを人権侵害という。

発想が素晴らしすぎるなと。

流石に人権侵害は言い過ぎかもしれないですけど、少なくともステレオタイプになってしまうのは良くないなあと思います。

心を揺さぶる

「君がわたしを騙したことではなく、わたしが君をもう信じていないことが、わたしの心を揺さぶる」ーー

なんか、ここまで読んでくると、この言葉が友人に対してではなく、女性に対してなんじゃないかと思えてきました。

騙したかどうかは別として、というか、個人的な推測では、勝手に騙されたと思ったんじゃないかなと思ってるんですけど、それは置いといて、好きな人を信じられなくなったのに、やっぱ好きという感じに思えなくもない言葉だなと。

これは、別にニーチェについて言っているわけではなくて、自分自身の過去を振り返った時、本当にモテないというか、別に今もモテてるわけじゃないけど、ダメダメな時期があって、その時の感情にすごく近いなあと。

そう思ったら、なんかニーチェがすごくいい奴に思えてきました。愛すべきニーチェ。

思い上がった善意とは

思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ。

最近の日本におけるNPO団体に届けたい言葉。

気にいらない理由

「わたしは彼が気にいらない」。ーー「どうして?ーー」「わたしがまだ彼に及ばないから」。ーーこのように答えた人がかつていただろうか?

これもニーチェ自身への言葉でもあるように思いました。

また、実際にそうだろうなあと。

自分も昔はそうだったし、今もそういう考えが咄嗟に出てきてしまうことがあります。

そういう時ほど、しっかりと相手を受け入れ、認めるようにしています。

親の教育とは

両親は知らずしらずに子供を自分に似た人間に育てるーーそしてこれを「教育」と称するーー。

「人は人、うちはうち」なんて言葉がありますが、これもそろそろ限界が来ているんじゃないかなと。

というのも、情報化社会になったことで、我が家のルールが変ではないか?と疑問に思うきっかけができやすくなったためです。

ただ、我が家のルールが悪いのではなくて、我が家のルールも時とともに変化させていくことが大切なんじゃないかなという話。

愚か者や表面しか見ない者

ーー愚か者や表面しかみようとしない者たちは、つねにわたしたちの敵なのだ!

この表面しか見ないという言葉は、容姿のことも含むのではないだろうか?という疑念が出てきてしまいました。

「ただしイケメンに限る」と同じというか。時代が変わっても、変わらないものもあるという話(違うだろ)。

女性をもっとも軽蔑してきたのは

これまで「女」をもっとも軽蔑してきたのは女であり、ーー男たちではななかったというのが真実ではないだろうか。

最近のフェミニズムやフェミニストの活動家の中には、まさに女性の活躍の場を奪っている人たちがいて、それに対して女性たちが声をあげています。

にんともかんとも。

思想家は理解されることを恐る

すべての深い思想家は、誤解されるよりも理解されることを恐るものだ。誤解されて苦しむのは、彼の虚栄心だけだろう。

あくまで個人的な考えですが、この言葉が、本書がちょっと読みづらいと感じた理由かもと思ったり。

というか、もしかすると、理解されることによって、自分のモテる人や女性に対するヒガミがバレてしまうことを恐れていたのかも。

もちろんストレートに考えれば、難解にすることによって高尚な内容であるとアピールしたかったというのもあるとは思いますが。

という感じで、かなり長々と書いてきましたが、他にも示唆に富む言葉が多く、かなり面白かったです。

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