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個人的に考えたことをつらつらと。
トロッコ問題とは
トロッコ問題とは、トロッコが制御不能になり、そのまま線路Aを進むと線路Aにいる5人が亡くなってしまうが、自分の目の前にある分岐器を動かして、トロッコの方向を線路Bに変えれば5人は助かるが、線路Bの先にいる1人は亡くなってしまう。さて、あなたは分岐器を動かすか?的な。
端的に言うと、「5人を助けるために他の1人を犠牲にして良いか?」という問題です。ざっくりした説明だけど。
このトロッコ問題は、分岐器を動かすにしろ、動かさないにしろ、それらの行為が許されるかどうか?が焦点です。
で、個人的にですが、トロッコ問題って、前提条件が変なんじゃないかなというのが、今思っていることです。
片方に家族がいたら
トロッコ問題では、多くの人が1人を犠牲にすることを選択します。
単純に人数の問題として考えているからです。
しかし、もし線路Bの先にいる1人が、家族だった場合はどうでしょうか?
その場合だと、回答は変わってくるでしょう。
では、どちらにも家族がいた場合にはどうしますか?
非常に回答が難しいのではないでしょうか。
ちなみに、この話をした時に、そんな状況は絶対起きるわけが無いから、考えること自体がナンセンス、考えてはいけないことだと言われました。
でも、トロッコ問題も起きるわけ無いし、ナンセンスだと個人的には思っています。
じゃあ、トロッコ問題って意味無いじゃんという話になりそうなのですが、個人的にトロッコ問題の本質って、違うところにあるんじゃないかなと。
そもそも考えなければいけないことは、別なのでは?という話です。
トロッコ問題で考えるべきこと、本質は?
具体的に言えば、トロッコ問題を単純に数の問題として片付けること自体が間違っているということ。
つまり、トロッコ問題で考えるべきは、線路の先にいる人間を、物として考えるか?それとも個人として考えるか?なのでは?ということです。
言葉で言えば、5人と1人ではなく、Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさん、Fさんとして捉える必要があるということ。
その場合、明確に答えを出せる人って、ほぼいないのではないかなと思います。
前述の家族がいた場合と同様です。
何が言いたいかというと、私たちは人の生き死にを考える際に、それを単純な数として考えて良いのか?がトロッコ問題の本質なのでは?ということです。
トロッコ問題の問い自体をひっくり返すような内容ですが、個人的にはそれこそが一番重要なんじゃないかと思っています。
というか、そもそも単純に人間を個人ではなく、物として捉えること自体が間違っていないか?という考え方です。
また、思考実験だからという意見もあるでしょうが、思考実験だからこそ、いろいろな考えが出てきても良いのではないか?とも自分は思います。
権力者が戦争する理由
権力者はなぜ戦争を選択するのでしょうか?
トロッコ問題を単純な数として理解していると、その理由も明白です。
つまり、権力者にとっては、戦地に赴く兵士は、物であり単なる数字としてしか考えていないということです。
それは、権力者たちの様子を見ていればわかるでしょう。
物であり単なる数字でしかない兵士が亡くなっても、哀悼の意は述べますが、家族が亡くなるほどの意気消沈はしないでしょう。
1人ですら家族が亡くなったら、相当精神にくるのに、何千人、何万人と家族が亡くなったら、精神的に耐えられるとは思いません。
まさに、人間を個人ではなく、物としてしか考えていない証拠です。
そういう考え方自体が、そもそも正しいのだろうか?というのが、個人的な考え。
そして、それがトロッコ問題が問うていることなのでは?ということ。
もっと具体的に言えば、権力者が戦争を選択する場合、自分の家族を絶対に戦地に赴かせなければいけないとなれば、戦争を安易に選択しないだろうという話です。
AIには決断できるが、人間には決断できない
人間が人間を単純な物、数として捉えることは、やはり個人的には違うんじゃないかなと思っていて、それができるのはAIかなというのが個人的な今の考えです。
人間には、おそらく決断ができないかなとも思います。
別に決断しても良いですけど、その決断に人間の精神が耐えられるようにはできていないと思っているので、確実に何か歪みができてしまうだろうなと。
しかし、AIは別だと考えています。
それはAIが人間を個人で考える必要のない存在のため。
もう少し推し進めると、種としては別だからというのが、自分が考えているところです。
我々は生きていれば、他の生命を殺し続けています。
ベジタリアン的な考えという小さな枠ではなく、ウイルスや細菌などを含めたもっと大きな枠としてです。
生命の定義を脳のあるなしで定義している方は別かもしれませんが、それでも昆虫などにも脳はありますし、何をもって脳とするのかも、明確にした方が良いかなと思いますが。
と、このあたりは、また別の話題なので、話を戻しましょう。
何が言いたいかというと、私たちは日々、ウイルスや細菌などを含めれば、多くの生命を殺しているわけです。
しかし、そのことについて、罪悪感を感じることはありません。
それは、ウイルスや細菌などを物、数として捉えているからです。
つまり、AIにとっては、人間を物、数として捉えることができるという話。
だから、トロッコ問題を例にすれば、分岐器をどうするか?はAIにか決断できないということです。
人間が決断する場合には、人間を物としてではなく、やはり個人として捉えた上で考えないと、意味がないと思います。
もし仮にトロッコ問題のような状況が起きたら
では、もし仮にですが、トロッコ問題のような状況が実際に起きたら、どうしましょうか?
人によって答えは違うかもしれませんが、今、自分が考えているのは、全員で話し合うしかないかなと。
そして、その上で結論を出すということです。
民主主義的な考えと言っても良いかもしれません。
時間が許す限り、話し合わないといけないとも思います。
また、理想的には全員が助かる道を最後まで考え続けるということも大切なのではないかとも思います。
分岐器をどちらに倒すか?ではなく、どうやったら全員助かるのか?を考え続けることこそ、トロッコ問題における、人間がするべき行動なのではないかなと。
分岐器をどちらに倒すかというのは、最後の最後という話。
余談
これを書こうと思ったのは、「トロッコ問題は単純に数の問題」と言われたことがきっかけです。
個人的にですが、その考え方自体に疑問があったというか。
で、いろいろと考えていたら、人間を単純に数で捉えているから戦争するんじゃないかなとも思ったりしました。
まあ、戦争の原因はそれだけではないですが、少なくとも前述したように、権力者が戦争を選択する場合、自分の家族を絶対に戦地に赴かせなければいけないとなれば、戦争を安易に選択しないだろうというのは、実際にそうだろうなと。
ただ、人間が認識できるというか、受け入れることができる個人の情報量に限界があるので、どうしても物、数という捉え方しかできなくなってしまうというのもあるかなと。
それは人間の限界なのかもしれませんが、少なくとも安易に人を物や数として捉えないことが重要かなと思っています。
また、トロッコ問題において、全員の命が助かる方法を考えるというのは、前提条件をぶち壊す考えで邪道かもしれませんが、そもそも人の命を犠牲にすることが是であるという前提は、正しいのかどうかについても考えた方が良いのではないでしょうか。