哲学対話メモ 気を使わない人ってどんな人?

投稿者: | 2025年1月24日

先日、性の哲学対話ワークショップに行ってきました。

今回も全体で20人以上が参加。

前半は全員で、後半は4つのグループに分けて、様々なテーマについて話をしました。

あくまで個人的なメモで、それ以上でもそれ以下でもありません。

気を使わない人ってどんな人?

全体での哲学対話のテーマは、気を使わない人ってどんな人?という感じです。

結婚した人の話で、結婚を決めた理由の1つとして、よく「気を使わない人だから」というのがあって、じゃあ、気を使わない人ってどんな人なのか、どんな関係なのか?みたいな話です。

うーん、難しい。

というのも、自分は家族に対しても気を使っているので。

どんな相手であっても、まったく気を使わないことは無いです。

だから、結婚できないのか(笑)

また、気を使わないから結婚したとは言うけれど、気は使っていると思うという意見もありましたね。

個人的にはそうかなと思います。

親しき仲にも礼儀ありではないですが。

まったく気を使わないというのは、傍若無人に振る舞うようなもので、それもまた違うだろうという話もでました。

確かにそうかなと思います。

気を使っているなというのは気づく

完全に自分の話なのですが、相手が気を使っているなというのを感じることは、非常にあります。

個人的には、そこまで気を使わなくても良いのにと思うのですが、それを言うのも野暮かなと思って、言ったことは無いですが。

気を使うのは、相手のためか、自分のためか

気を使うというと、相手のためにと思いがちですが、自分自身のためでもあるかなと。

恋愛なんかがわかりやすいですね。

相手に気を使うのは、相手に好きになってもらいたいからで、自分のためというのは嫌われなくないから、という感じ。

嫌われたくないという点については、個人的にすごく感じていて、好かれたいというよりも、嫌われたくないという感情の方が強いですね。

アプローチして、うまく行くかもしれないし、うまく行かないかもしれない時、うまく行かないことを前提に考えることが多いかなと。

まあ、個人的には恋愛だけじゃないですけど。

基本的に自分は未来予測を大体悪い方向に考えるようにしていて、予測が悪い状態だったとしても、まあ死ぬほどじゃないなと思ったら、GO!みたいな感じ。

ちょっと理解されにくいかもしれないですが。

相手が気を使わないようにするには

相手が気を使わないようにするには、どうしたら良いのかなと思うことはあります。

あくまで個人的にぼんやりと思ったのは、

  • 敵意が無いことが伝わっている
  • 否定しないことを伝わっている
  • 受け入れることを伝わっている

あたりなのかなと。

いわゆる心理的安全性を作り出すことが、気を使わなくするための条件な気がしました。

恋愛においては、好きと伝えて否定、つまり断られること、受け入れてもらえないことが、気を使う理由というわけです。

まあ、そういう状態を作るのが難しいですし、言葉で伝えると、また嘘くさいというか(笑)

「大丈夫、僕は貴方を否定しません。何を言っても受け入れます」と言えば言うほど、何か怪しく見えてしまうものかなと。

そういう意味では、最近ある人とLINEでメッセージをやり取りしていて、「実績の積み重ね」という言葉が出てきて、それが大切なのかもと思いました。

つまり、いきなり心理的安全性を作り出すのは難しく、「実績の積み重ね」によって心理的安全性を作っていくということです。

「実績の積み重ね」は心理的安全性だけではなくて、信頼とかもそうかなと。

普段の行動の積み重ねこそが、大切ということなのだろうなと思います。

身につまされる思いです。

気を使わないのは、信頼の裏返しかも

自分の場合、家族に気は使いつつも、結構何でも言える関係にあります。

先日もちょっとした事件というか、健康に関わる話で、少し自分が強く言い過ぎたなと思って謝りました。

で、その後、自分の言っていることもわかるというLINEが家族から来て、次の日には普通に電話で話もしています。

逆に、家族からちょっとキツめのことを言われることもありますが、これまで特に仲が悪くなるということはありません。

それは前述したような「実績の積み重ね」によって「信頼」しているからなのかもなあと。

共感するって、本当にある?

後半のグループわけでは、共感についての話がメインでした。

ある人の話に「その気持ちわかる」的なことを言って、「経験したことが無い人にはわからない!」と言われたみたいな話から、広がっていきました。

うむ、これも難しい話だなと。

というのも、自分も結構人の話に気軽に「わかる」って言っていたので。

実際に「わかる」こともありますけど、経験ってその人しかわからないことの方が、圧倒的に多い気がするんですよね。

極論を言ってしまうと、他者を完全に理解することはできないというか。

ちなみに、自分はこの他者の経験を完全に理解できないという点で、人間は平等だと思っています。

そのあたりは、また時間があれば書こうかなと。まあ、中学生の頃に考えた話なので、アプデもした方が良いなとも思うので。

で、話を戻しましょう。

相手と同じ気持ちを感じるというのは、共感ではなくて同感なんじゃないかなと、個人的には思いました。

なので、共感というのは、ともに感じることでしかなく、相手の気持ちを理解することではないのかなと。

もっと言うと、「わかる」じゃなくて、「受け入れる」「受け止める」というのが共感なのかもなあという話。

その場の話では、置くという表現がされていました。それに対してみんなが感じるみたいな。

あと、共感ではなくて、共鳴という感覚なのかもという意見もあって、それについては、ああ、と個人的に腹落ちしたところがあります。

個人的に話を聞きながら、綿矢りさ先生のデビュー作 蹴りたい背中の冒頭「さびしさは鳴る。」が頭をよぎったからです。

いやあ、やはり綿矢りさ先生は天才。このフレーズを生み出したのは、本当に凄いなと、20数年越しに思いました。


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