哲学の名著50冊が1冊で学べる「ソクラテスから新実在主義までをざっと学べる良書」

投稿者: | 2025年1月16日

評価・レビュー

☆5/5

哲学の過去の歴史から、現在に至るまでをざっと学べるのが良かったです。

また、名著が主題になっているので、より深く知りたければ、その本を読めば良いので、インデックス的にも良いかなと。

個人的に最近、適当に哲学系の本を読んでいるのですが、本書でそれらの本の位置づけが、少しだけ明確になりました。

哲学の歴史をざっと学べるという点では、正義の教室も良かったです。

ただ、正義の教室は、物語調で読み物として面白くサクサク読めて素晴らしいのですが、全体感というのは掴みにくいところがあったかなと。

ですので、哲学の全体感を掴みたいなら本書がおすすめです。

以下は、本文を引用しつつ、個人的な考えなどのメモ。

対話によって真理を探求スタイル

ソクラテスが哲学者と呼ばれるのは、対話(問答)によって真理を探究するというスタイルをあみ出したからだ。

最近、哲学対話というのに興味が湧き、「哲学対話とは」ずんだもんが説明する動画作成したり、「はじめての哲学対話」のスライド作成したりしています。

哲学対話という名前の通り、対話をメインにしたもので、ふとソクラテスに戻ってきたのかなあと思ったりしました。

哲学は真理、本質を捉えることだが

普通の人は直接目に見える現象にとらわれて生きているが、哲学の役割は消滅しない本質を捉えることにある。

哲学というと、やはり真理とか本質とかを捉えること、それを明らかにすることに主眼が置かれている気がします。

ただ、それはもはや過去のことなのかもしれません。

というのも、自然科学が発達し、世界がどんどんとクリアになってきています。

まあ、未だに見えないところの方が多いのですが、それは哲学ではどうしようもない領域なんですよね。

例えば、宇宙の外側はどうなっているのか?

想像することはできますが、答えはありません。

想像することが哲学というのであれば、哲学でも答えが出せるのでしょうが、哲学は想像ではないですよね。

科学においては、様々な法則、数学、物理学、実験結果から裏付けていくことで、宇宙の外側を知ることができる可能性はあります。

しかし、哲学にはその土台がありません。ですので、哲学では宇宙の外側は、わからないのです。

ジョン・サールは、

20世紀の大分部においては言語の哲学が「第一哲学」であっった。(中略)しかし、注目の的はいまや言語から心に移った

と本書でも書かれているように、今の哲学は人間の心についての話がメインになっています。

その理由は、まさに科学によって、様々なものがクリアになっていき、真理や本質は探求できない状況になったからだと個人的に考えています。

心は、現代の科学でもなかなか踏み込めない領域です。

もちろん、非人道的な実験を行えば、もっと人間の脳についての解明は進んでいくでしょう。

しかし、それはできません。

つまり、哲学が心にフォーカスを当てるようになったのは、科学がまだ解明するのに時間がかかる問題だからと言えるのかなと。

そして、そこには真理や本質は存在せず、心の捉え方、世界の捉え方、生き方みたいなものが主題になります。

もう、そこにしか哲学が生き残れる場所が無いとも言えるかもしれません。

個人的には哲学は再定義が必要な段階ではないかと考えています。真理・本質を探求する学問からの脱却です。

参考 → 哲学は死んだか? そもそも哲学とは何かという共通認識が必要では? | ネルログ

人間の本質は愚かさか?

人間の愚かさこそが、その本質である

確かに人間というのは、愚かな行為を繰り返してきました。

それが本質であると言われたら、そうなのかもなあと。

例えば宗教関連では凄惨な事件が多々ありました。

ただ、当時はそれが正しいと考えていたし、それが当然だったんですよね。

それを愚かさと断じるのは簡単ですが、では今の我々はどうなのかとも思います。

戦争は未だに絶えず、凄惨な事件も起きていますよね。

人間が自分のことを見つめると、その悲惨さに直面する

やっぱり愚かだ、人間は間違ったことをすると断言したところで、ではどうするのかが大切なのかなと。

AIにでも判断をすべて任せてしまいましょうか?

少なくとも人間よりは、愚かな判断は下さないでしょうね。今のAIであっても。

では、人間は必要ないんじゃないかという結論に至りそうです。

しかし、個人的には逆じゃないかなあと。

人間は愚かで間違いを犯す。そして、それこそが人間が進化していくのに必要なことだったんじゃないかという話。

AIというのは、最適な答えを出してくれます。確かにそれは正しいです。

しかし、最適な答えからは、新しいものは絶対に生まれません。

例えば、ナビ。現在地からの最短ルートを教えてくれて便利です。

人間が地図を見ながら進んだら、たまに間違えてしまうこともあるでしょう。

でも、道を間違えたことで、今まで知らなかったカフェに出会えるかもしれません。

間違えたからこそ、そこから人間は学び成長してきたわけです。

参考 → AIの話 アイデアが生まれるのは人間の誤作動が原因かも | ネルログ

つまり、何が言いたいかというと、「人間の愚かさこそが、その本質である」というのは、まさにその通りなのですが、その愚かさこそが、人間が成長する、進化していくのに必要なことだったという話。

愚かで間違いを起こすからダメなのではなく、愚かで間違いを起こすから成長できたということです。

だから、愚かで間違いを起こすことは、ネガティブなことではなくて、むしろポジティブに捉える必要があるんじゃないかなと。

嘆くのではなく、次に繋げる。それが、僕達にできる唯一のことな気がしています。

絶対的な世界認識はない

世界の見え方は認識主体の立場により異なり、絶対的な世界認識はありえない

これもそうですね。相対性理論からも明らかになっています。

数式などを省いて、もう少し詳しく知りたい方は、世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論がおすすめです。

道徳の本質は感情や情念か

道徳判断が異なるのは、理性による対立ではなく、感情や情念の違いにすぎないのである

これもその通りなんじゃないかなと個人的には思っています。

そして、それは道徳判断だけではなく、哲学そのものにも言えることではないか?というのが今の個人的な見解です。

前述したように、世界の真理や本質を探求するという役割は、哲学から科学に移行しました。

哲学がどれほど頑張っても、科学に取って代わることは不可能です。

個人的にですが、その理由として、科学は積み重ねに対して、哲学は乱立している学問だからだと思っています。

哲学は死んだか? そもそも哲学とは何かという共通認識が必要では?でも書いたのですが、三平方の定理は科学のどの分野でも成立します。しかし、ソクラテスの哲学は、納得できる点とできない点がありますよね。

結局、そこが科学と哲学の違いなのです。

なぜ、そんな乱立が起きてしまうのかと言えば、哲学の本質は主観の域を出ていないため。

科学においては、再現性がその基本にあります。他の人が実験してみて同じ結果になれば、正しいという判断が下されるわけです。

しかし、哲学においては、そのような検証がありません。

なぜならば、主観による考えでしか無いからです。

過去の哲学者の考えについて、検証し、それを証明した人っているのでしょうか?

もし、証明されていれば、それは真理となり、すべての哲学者が踏まえるべきものになるはずです。

けれどそうはなっていません。

そうなると、どうやっても主観の域を出ず、感情や情念の違いでしかないと言わざるを得ないのかなと。

なので、個人的には哲学は魂の叫びなのかなと思ったりもしています。

端的に言えば、哲学とは魂の叫びの文学なのかなと。いや、正確にはだったことが判明したという感じでしょうか。

世界は存在しないというロジックに対する個人的な疑問

ガブリエルの独自性は、事柄の総体というウィトゲンシュタインの「世界」概念に、「意味の場」を付与したことにある。
彼によれば、「AはXという意味の場においてBである」となる。たとえば、ユニコーンは神話という意味の場において存在するし、私が見た夢は私の記憶という意味の場において存在している。それらは物理的な意味の場では存在しないとしても、他の意味の場では存在している。

世界という定義は、

  • 最も大きな領域を指す概念であること。
  • モノではなく事柄の総体であること

だそうです。

で、

問題は、世界もまた「Xという意味の場において存在するのか」ということである。しかし、そうなると、Xは世界よりも大きいことになるだろう。これは「世界」の定義に反する。したがって、「世界」を包括するような「X」は存在しない。そして、「X」が存在しないのであるから、「世界」も当然存在することはない。これがガブリエルの言う、「なぜ世界は存在しないのか」のロジックである。

という結論に至ります。

個人的に本書で一番、疑問があったというか、理解ができなかったのが、ガブリエル氏の上記の考え方です。

というのも、意味の場という概念は、そもそもガブリエル氏が生み出したもの。

で、世界の定義もガブリエル氏が生み出したものです。

そこに矛盾が存在するから、世界は存在しないというロジックになります。

個人的には、これがまったく理解できませんでした。

例えば、1+1=2である。2はもっとも大きな数字である。よって1+1+1=3は存在しない。って言われている感じというか。正確じゃないかもしれないけど。

そもそも自分で勝手に意味を付与しているわけで、そこに実験結果などは存在していません。

ガブリエル氏は、

こうしたロジックによって、ガブリエルは何を主張したいのだろうか。
その基本にあるのは、現代の「自然主義」的傾向を批判することだ。
「自然主義」によれば、存在するのは物理的なものやその過程だけになり、それ以外は独自の意味をもたなくなる。
たとえば、心の働きも、結局は脳とその過程に還元され、脳を理解することで心も理解できる、と見なされる。
しかし、こうした自然科学的宇宙だけでなく、心に固有の世界もまた存在する、と「新実在論」は主張するのである。

を言いたかったそうです。

これを読んだ時に、個人的に思ったのは真理や本質を探求する哲学はもう限界なんだなと思いました。

これが哲学の最前線なのかと。

機会を見つけて、このあたりについては、本を読みたいなと思っていますが、わかりにくい表現を使っていろいろと述べてはいるのですが、結局のところ言いたいのは、「科学に対する個人の魂の叫び」なんじゃないかということ。

本書では、「世界が存在しない」という論理によって「心の世界」が存在することを証明したとしていますが、そもそも世界の定義合ってます?

ガブリエル氏が言っている世界の定義って、我々の共通認識になってます?

1+1=2と同じレベルなのか個人的には、かなり疑問です。

それは意味の場という概念についても同様。

本当に、これ皆の同意得てます?

というのが個人的な疑問というか、結局「科学に対する個人の魂の叫び」なんじゃないかと思ってしまったわけです。

いや、まあ、全世界の人が、ガブリエル氏の言う世界の定義という認識を持っているなら、そうなんでしょうけど。

良いんですよ、個人的な意見として、そう考えているは問題無いですし、そういう考え方もあるよねという話なら。

というか、それが自分が哲学に対して今思っていることなので。

でも、証明と言われてしまうと・・・何か、数学とかの証明とは、ちょっとかけ離れ過ぎているという印象です。

やはり本を読まないと理解できないかも。

あくまで個人的な考えですが、人間は意味を付与する生き物だと思っています。

そもそも意味など世界には存在しません。人間が意味を付与しているだけです。

ただ、それだけの話ではないかなと思うのですが、どうなんでしょうね。

個人的にですが、本書を読んだ段階では、「哲学は死んだ」と思いました。

対話に戻る哲学、いや対話こそが次の哲学なのではないか

哲学対話に興味が湧いていて、哲学が死んだという結論は、甚だ矛盾しているように思いますが、個人的にはむしろ哲学対話というのが、次の哲学のテーマというか、哲学が生き残る道なんじゃないかなと考えています。

個人的に哲学は、やはり「個人の魂の叫び」でしかないのかなと。

哲学が心の分野に移ってきたのは、心が科学で解明されるには時間がかかるからです。

科学で解明されるまでは、言ってしまえば、言いたい放題。

で、後から科学で解明されていき、合っていたね、間違っていたねという確認がされていきます。

それって、どうなのかなと。

もはや、そこに過去のような哲学は存在しないんじゃないかなと個人的には思っているわけです。

そういう意味で、真理や本質を探求する哲学は限界んだろうなと。

かのウィトゲンシュタインは、論理哲学論考「語ることができないことについては、沈黙するしかない。」と語っています。

ウィトゲンシュタインが語った言葉を、自分がちゃんと理解しているわけではないですが、今の哲学はこの言葉を改めて噛みしめる必要があるのでは?というのが個人的な感想です。

つまり、科学で解明されていくことについては、沈黙するしか無いということ。

じゃあ、哲学は終わったのかというと、個人的には逆で、語れることはみんなで語ろうよというのが、今の自分の考えです。

その答えが、哲学対話なんじゃないかなという話。

哲学対話の多くは、自分の経験からの考えを述べる場です。高尚な哲学者たちの論理を引き合いに出し、議論する場ではありません。

そこには真理も本質も無いでしょう。

そんなもののは、科学に任せればよいのです。

大切のは、「魂の叫び」を出すことなんじゃないかなと。

叫ぶだけなら、単純なストレス発散にしかなりません。

だから、対話なんです。

人の話も聴いて、考えて、そして魂の叫びを出力する。

そこに明確な答えなんて無いかもしれません。

でも、続けることで、自分なりの納得が得られる可能性はあります。

それは、ソクラテスが感じた無知の知のようなものかもしません。

なので、最初にソクラテスの話を引用し、「ソクラテスに戻ってきた」と述べたわけです。

これが次の時代の哲学なんじゃないかなって個人的に思っています。

天才が導き出した何かではなく、個人が導き出したそれぞれの答え、それこそが本人にとっては真理であり、本質なんじゃないかなと。

そして、それを見つける活動こそが哲学であり、それを助けるのが哲学対話なのではないかと考えています。

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