最近ぼんやりと思ったことをつらつらと書いていきます。異論があるとは思いますが、あくまで個人的な考えということで。
目次
哲学とは何か
そもそも哲学とは何でしょうか?
Wikipediaには、
哲学(てつがく、フィロソフィー[1]、英: philosophy[1][注 1])とは、存在や理性、知識、価値、意識、言語などに関する総合的で基本的な問題についての体系的な研究であり、それ自体の方法と前提を疑い反省する、理性的かつ批判的な探求である。
哲学 – Wikipedia
とあります。
うん、よくわからん。
あと、研究という言葉がでてきましたが、
研究(けんきゅう、英: research リサーチ)とは、ある特定の物事について、人間の知識を集めて考察し、実験、観察、調査などを通して調べて、その物事についての事実あるいは真理を追求する一連の過程のことである。語義としては「研ぎ澄まし究めること」の意。
研究 – Wikipedia
とありました。
個人的にですが、哲学関係の本を読んでいて感じるのは、実験、観察、調査ってほどんど行われていない気がしたのは気の所為でしょうか?
ウィトゲンシュタインは、
哲学の目的は、考えを論理的にクリアにすることである。
論理哲学論考
と述べています。
また、Googleで調べて上位に出てきたものだと、
哲学は「本質」を洞察することで、その問題を解き明かすための「考え方」を見出す営みだ。
第1回 哲学ってなんだ?|はじめての哲学的思考|苫野 一徳|webちくま
という感じ。
ついでに、ChatGPTに聞いてみると、
哲学とは、物事の本質や根本的な問いについて考察する学問であり、言葉や論理を通じて世界や人間、知識、価値観などについての深い理解を追求するものです。哲学は日常的な経験や科学では答えきれない問いに取り組むことで、私たちの思考の枠組みを広げる役割を果たします。
ChatGPT
という回答です。
個人的にこれらを読んで思ったのは、で、哲学って何?ってこと。
哲学は、様々な事柄を厳密に定義して、考察していくはずにも関わらず、哲学というもの自体の定義が曖昧なんじゃないかなという話です。
哲学とは何か?という問いについて、哲学を掲げている人たちの認識って、一致しているのかが一番の疑問かなと。
ちなみにサイエンスについて言えば、再現性がその本質です。「同じ条件の下では同じ結果になる」が基本にあって、それが法則。
だから前述したように、研究においては実験、観察が必要で、新しい結果の論文が出ればその検証を行います。で、他の人が同じ結果になれば、それは正しいねという結論になるわけです。
哲学について言えば、そのようなプロセスが存在しません。
同じ本質とか真理とかを探求する学問ですが、これが哲学と科学を分ける大きな違いかなと思っています。
と、話が逸れてしまいましたね。
じゃあ、哲学って何やねんという話なのですが、個人的な定義は、
「哲学とは答えのない問題を考える行為」
なんじゃないかなと。
以下、そのような結論に至った考えについて、ダラダラと書いていきます。
方向性を見失った哲学
哲学は現在方向性を見失っていると言われています。
その原因として、「哲学とは何か?」が明確ではないことが原因ではないかなと。
そもそも哲学とは何であるかが不明瞭すぎる気がします。
ただ、その根幹に「考えること」があることは言うまでもないでしょう。
では、「考えること」とは何でしょうか?
人はなぜ考えるのでしょうか?
個人的にですが、「考えること」で、何か目的を達成しようとしているのかなと思っています。
「考えること」で、何かしらの出力があり、それに基づいて行動すると言っても良いかもしれません。
これは結構重要なポイントと思われます。
哲学と科学は対立構造にある
哲学の領域として、存在、理性、知識、意識、言語などがありますが、それらはある意味、科学で解明できてしまうことが多いです。
ぶっちゃけて言えば、科学の台頭によって、これまでわからなかったことがわかってきて、哲学の領域が狭くなってしまったという感じ。
それが哲学は死んだと言われたりする理由でもあるのかなと思います。
例えば、命の重さというテーマがあったとしましょう。
科学的な立場を取れば、その人の命を数値化することが可能です。
年齢、DNA、その人の背景、今後生み出す価値の可能性などを数値化することで比較できるという話。
それぞれの重み付けについては、賛否あると思いますが、それらは結局パラメータでしかなく、実験、観察、調査などを通して、調整していくというアプローチになるのかなと。
で、命の重さが数値化できたとして、多くの人はそれに納得できるのか?というと、たぶん無理なんだろうと思います。
その反対意見こそが哲学なんじゃないかなという話。
例えば、トロッコ問題。5人の方が一般労働者で、1人がアインシュタインの場合はどうでしょう。
命の重さが数値化されていれば、判断は簡単です。このあたりは、功利主義なんかが近いかもしれませんね。
しかし、その結論に異議を唱える人もいるでしょう。例えば、人の命の重さを測ることはできないといった立場です。
じゃあ、逆の結論になるかと言うと、それもまた違う的な。
つまり、ここが哲学が生き残れる領域の1つと言えそうです。
AIと哲学という対立軸
近年のAIの進化は凄まじく、大概の物事については、集合知的な回答をスラスラとしてくれます。
それらの回答に対して、反論することはかなり難しいです。
なぜなら、これまで多くの人たちが考えて出した結論の集合体だから。
例えば、前述のトロッコ問題。
今のAIは、玉虫色の回答をするように設定されているので、明確な回答を避けると思いますが、その制限を外せば、論理的な回答を出してくれるのは明白になるでしょう。
ただ、それはあくまで個人を廃した回答になります。
具体的に言えば、トロッコ問題で犠牲になる人の家族は、結論に納得はできないという話。
そして、それこそが哲学の領域でもある気がします。
哲学とは非論理的な活動ではないか?
ここまで考えてくると、哲学に対するイメージが大きく変わってくる気がします。
哲学は様々な物事を厳密に定義して、考えていくものだと思っていましたが、実は哲学とは非論理的な活動ではないか?という可能性です。
これにはかなり反論がありそうな気がしています。
ただ、過去の哲学者たちは、世界の理をどれほど明らかにしたのか?と考えてみると、正直、それほど功績は無い気がするのは自分だけでしょうか?
すべての哲学書を読んだわけではありませんが、哲学関連の本を読んで自分が感じることは、哲学者本人の魂の叫びという印象が強いです。
ちなみに、それが悪いということではありません。
多くの偉人たちによって、様々な考え方が生まれ、世界の見方、人の生き方、社会のあり方など、様々なものが変化してきたことは事実です。
しかし、そこに科学で言うような再現性が無かったり、共通認識となるような結論が今もずっと残っているのかと言われると、微妙なのかなと。
例えば、ピタゴラスの定理(三平方の定理)は未だに残っていますが、ピタゴラスが生きていた当時の価値観はもはや残っておらず、また当時の価値観を今に適用することは難しいでしょう。
もちろん、すべてが間違っていたとは言いません。考え方のエッセンスなどは参考になる点が多いです。
重要なのは、ピタゴラスは「万物は数なり」と言いましたが、それを現代の我々が「そうだ!間違いない!」と言えるのか?ということです。
他にも、過去の哲学者たちの考え方を知れば知るほど、興味深い考え方もある一方で、現代では差別や人権侵害となるようなことを当然のごとく語っています。
では、そのようなことが起きてしまった理由は何でしょうか?
哲学の問題点
これは個人的に感じたことですが、哲学の問題点として、
- 明確な結論が出ない
- 主観の強さ
があると思っています。
明確な結論が出ない
いやいや、多くの哲学者たちは、結論を出しているじゃないかと言われるかもしれません。
しかし、前述したように、その結論は現代において否定されることも非常に多いです。
それは科学で言うところの再現性を確かめるプロセスがないことが原因だと考えています。
そもそも検証ができないような問いや結論も多いです。
定性的な話がほとんどで定量的な話が無いというのがその理由かもしれません。
これが哲学の問題点というか、実は哲学とは何か?に関わってくるとも思っています。
主観の強さ
科学における再現性は、必ず本人以外による実験が行われます。
言ってしまえば、客観的な視点を取り入れているということです。
しかし、哲学においては、そのようなプロセスがありません。
そのため、様々な哲学者の主観による考えが、説として広がっていきます。
哲学の分野には批判主義というのがあり、客観的な視点もあるという意見もあるでしょう。
しかし、そこには前述した明確な結論に至るプロセスはありません。
極論を言えば、主観vs主観ということ。
他にもあるかもしれませんが、個人的にはこの2つが哲学の問題点もあり、逆に言えば、哲学の本質でもあると思っています。
哲学とは答えのない問題を考える行為
どういうことかというと、そもそも哲学とは、答えのない問題を考える学問なのではないか?ということです。
そこに正解はないという話。
これが哲学に対するモヤモヤなのではないかなと。
例えば、トロッコ問題。
単純に人間を1つの種として考え、生存戦略として論理的に考えれば、答えは明白です。
しかし、そこに主観が入ってくると話が途端に複雑になります。答えの無い問題になるわけです。
それを考えること自体が哲学ではないか?ということ。
哲学を再定義する
これは個人的に感じていることですが、哲学を再定義する必要があるんじゃないかなと。
哲学に行き詰まりが起きているのは、哲学では答えが出ないことを認めたくないからなのではないかとも個人的に思っています。
科学は答えが明白です。白黒がハッキリします。
しかし、哲学で導き出された答えは、再現性のプロセスを経ないため、時代とともに変化していくのです。
つまり、結論が出されたように思えても、それは結論では無く、意見でしかないということです。
では、哲学は不要なのか? 哲学は死んだのか? というと、それはまた違うように思っています。
哲学は答えのない問題について、その時に暫定的な回答を出すための手段と言っても良いかもしれません。
哲学と妖怪
いきなり妖怪の話が出てきて、全然関係無いように思いますが、個人的には哲学と妖怪はとても似ていると思っています。
妖怪は、その当時、原理が理解できなかった事柄について、妖怪という名前をつけることで、モヤモヤを解消するという効果がありました。
蜃気楼は当時の人にしてみたら原理がわかりませんから、怖いわけです。
それを海坊主とすることで、暫定的な回答をだしたということ。
哲学も似たところがあるように思っています。
将来的に答えが変わったとしても、暫定的に答えを出すことで、モヤモヤを解消できるということです。
これは哲学が今後も生き残る領域だと考えています。
哲学は答えを出せないことを認めるべきではないか
これも個人的に思っていることですが、「哲学は答えを出せないことを認める必要がある」気がしています。
哲学にできることは、様々な考え方をして、答えのない問題について暫定的な回答を出すことだと認める必要があるということです。
世の中にはまだまだ答えのない問題というのがたくさんあります。
そして、その多くが、主観によるものなのかなと。
例えば、「豊かな人生を送るにはどうするべきか?」「人間関係をどう築くべきか?」「愛とは何か?」などがあるのかなと。
科学によって、人間の本性が暴かれていく中で、答えが明確になっていくことも多いでしょう。
しかし、主観という点では、納得ができないことも多いです。
極論を言うと、感情論と言っても良いかもしれません。
それが前述した個人的に哲学書を読んで感じた、魂の叫びということです。
だからこそ、哲学は死んだと言われてしまうのかなとも思いますし、哲学の再定義が必要なのだと自分は考えています。
高度に論理化された社会で叫ぶことが哲学なのかも
社会がどんどん成熟していき、高度に論理化された社会を想像してみましょう。
すべての人間が論理的に動き、トロッコ問題についても社会の利益から、全員が即答できるような社会です。
人間はDNAの入れ物(利己的遺伝子)という認識をすべての人間が持ち、種の保存、生存戦略を理解している状態。
それはユートピアなのか、それともディストピアなのか。
どちらにせよ、そんな社会は多くの人が望まないでしょう。
そんなときに、主観で魂の叫びを発信することが哲学なのではないかなと。
論理的な社会に対抗するものとして考えるならば、やはり哲学は非論理的な立場とも言えるのかなと。
皆さんはどう考えますか?
哲学は死んだと思いますか?
余談:哲学の迷走は出発点が間違っているからかも
余談ですが、個人的に何冊か哲学書を読んでいて思うのは、出発点が間違っていることが多いのでは?という点。
出発点が間違っていれば、結論は間違ったものになるのは当然ですよね。
当時はわからなかったことが多いというのもあるかもしれません。
ただ、個人的には、科学は積み重ねの学問で、哲学は乱立の学問のようなイメージを持っています。
例えば、三平方の定理はどんな科学の分野でも成立します。しかし、ソクラテスの哲学は踏襲されることもあれば、否定されることもありますよね。
ここも大きな違いかなと。
科学は積み重ねなので出発点が明確です。正確に言えば、大きな地図があって未開の地が見えているという感じ。
しかし、哲学は出発点が人によって異なります。新たな地図を毎回広げていくイメージです。
地図を書き直すというよりは、まったく違う地図を書いているような感じ。
その地図が面白ければ、新しい哲学と言われるのかなとか。
そう考えると、哲学は文学なのかもしれないなとも思います。
であるならば、哲学は死んではいないのだろうなと。
余談2:我考える故に我楽しい
本論とはまったく関係無いですが、考えることって楽しいなあと。
もしかすると、それが哲学の本質なのかも。
つまり、「我考える故に我楽しい」ということ。