哲学の本質とは何か

投稿者: | 2025年1月26日

以下は、書き殴りというか、個人的に思ったことを、つらつら書いたものです。正解とかありません。

世界は個人の中にしか存在しえず、哲学とは個人のものでしかない

コミュニタリアニズムの次に来るのは、個人の時代というか、個人個人によって世界は変わり、違いがあって、そして相対的でしかなく、現実とは出来事でしかないという考え方であり、結果として世界は個人の中にしか存在しえず、哲学とは個人のものでしかないという帰結ではないのか?

真理は科学が担う

哲学は真理を求めようとしてきた人間の試みであったが、しかしそれはもう不可能なのだ。

科学が世界を解き明かす役割を担ってしまったからだ。

どれほど哲学が頑張って世界を解き明かそうとしても、科学の前にはひれ伏すしかない。

どれほど哲学者が世界は存在しないと叫んでも、世界は存在するのだ。

言ってしまえば、それは詭弁でしか無いである。

詭弁にも意味はある、というか意味しか存在しない

では、その詭弁に意味はあるのか?

意味はある。

というか、意味しか存在しない。

そして、それは真理ではなく、その人にとっての意味でしかないのだ。

その意味に共感が生まれることもあろう。

しかし、共感しない人もいる。

科学は誰がどう頑張っても、同じことだが、哲学は人それぞれなのだ。

むしろ、その人ごとに哲学が存在し、その人ごとに世界が存在する。

この結論は、世界は相対的であるという科学の結論と一致する。

哲学とは個人の心の叫び

何が言いたのか。

結局、哲学とは、個人の営みでしかなく、個人の心の叫びでしかないのだ。

心の叫びが押さえつけられると、人は抑うつ状態になるのではないか。

心の叫びを出すことが、心の健康を保つのに必要ではないのか。

ただ、心の叫びを出しただけでは意味がない。

誰かに聴いて欲しいのだ。

そう誰かに認めて欲しいのだ。

誰かに受け入れて欲しいのだ。

それがもしかすると哲学の本質ではないのか?


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