以下は、書き殴りというか、個人的に思ったことを、つらつら書いたものです。正解とかありません。
世界は個人の中にしか存在しえず、哲学とは個人のものでしかない
コミュニタリアニズムの次に来るのは、個人の時代というか、個人個人によって世界は変わり、違いがあって、そして相対的でしかなく、現実とは出来事でしかないという考え方であり、結果として世界は個人の中にしか存在しえず、哲学とは個人のものでしかないという帰結ではないのか?
真理は科学が担う
哲学は真理を求めようとしてきた人間の試みであったが、しかしそれはもう不可能なのだ。
科学が世界を解き明かす役割を担ってしまったからだ。
どれほど哲学が頑張って世界を解き明かそうとしても、科学の前にはひれ伏すしかない。
どれほど哲学者が世界は存在しないと叫んでも、世界は存在するのだ。
言ってしまえば、それは詭弁でしか無いである。
詭弁にも意味はある、というか意味しか存在しない
では、その詭弁に意味はあるのか?
意味はある。
というか、意味しか存在しない。
そして、それは真理ではなく、その人にとっての意味でしかないのだ。
その意味に共感が生まれることもあろう。
しかし、共感しない人もいる。
科学は誰がどう頑張っても、同じことだが、哲学は人それぞれなのだ。
むしろ、その人ごとに哲学が存在し、その人ごとに世界が存在する。
この結論は、世界は相対的であるという科学の結論と一致する。
哲学とは個人の心の叫び
何が言いたのか。
結局、哲学とは、個人の営みでしかなく、個人の心の叫びでしかないのだ。
心の叫びが押さえつけられると、人は抑うつ状態になるのではないか。
心の叫びを出すことが、心の健康を保つのに必要ではないのか。
ただ、心の叫びを出しただけでは意味がない。
誰かに聴いて欲しいのだ。
そう誰かに認めて欲しいのだ。
誰かに受け入れて欲しいのだ。
それがもしかすると哲学の本質ではないのか?