「怠惰」なんて存在しない 終わりなき生産性競争から抜け出すための幸福論 – 「生産性=善」と考えるのをやめよう

投稿者: | 2025年2月1日

評価・レビュー

☆5/5

端的に言えば、「みんな何かに追われるように生きてるけど、休んでも良くない?」って感じかな。

この休むという行為を、世の中では「怠惰」であるとし、それが固定概念として広がっていることから、みんなが何かに追いたてられているということ。

というか、自分自身も若い時は、そんな感じでした。

仕事をたくさんすることが格好良いと思っていましたし、それが自分自身の価値だと思っていたんですよね。

しかし、メンタルが壊れてしまい、すべてが崩壊しました。

もう社会復帰は難しいでしょう。それは自分の能力の問題ではなく、社会が一度ドロップアウトした人間を弾くというシステムだからです。

そう考えると、私たちは社会の一員から弾かれることを恐れて、社会に追いたてられて生きているのかもしれません。

メンタルが崩壊してしまった人、言ってしまえば、うつ病になった人に「頑張れ」というのは良くないと言われています。

実際、自分自身のことをふり返ってみると、メンタルが崩壊し、休みをいただくことになった時点では、少し休んでまた再び頑張るぞ!的に考えていました。

休んだ直後は、まだまだ気が張っていたので、自分自身をコントロールできていないことがあっても、やる気を出してリカバリしようとしていた感じです。

ただ、1ヶ月ほどして、一気に落ち込んでいきました。

その後は、半年ぐらいほぼ記憶が無いです。

心療内科に通っていましたが、その時だけは、自分は回復しているとウソの発言をしていました。

自分がダメになってしまったことを、外に出すのが怖かったというのもあるし、自分自身で認めたくなかったからというのもあるかなと。

そのあと、いろいろとあって、ようやく1年前ぐらいから少しずつですがアクティブに動けるようになりました。

休んでいる時は、自分自身を責めることもあって、そもそも自己肯定感、自己評価が低いこともあって、本当に自分が嫌いで。

その休息期間は、おそらく多くの人からすれば、ほとんど何も生産していない無駄な時間で価値のないものとして捉えられるだろうなと。

というか、自分自身もそう考えていました。

しかし、本書では、それらの休む時間、怠惰な時間というは、次のステップへの充電期間でもあると言っています。

考え方の違いというか、捉え方の違いでしかないですが、それでも無駄な時間、怠惰な時間にも価値があると考えることができると、それだけで精神的なストレスはかなり軽減されるかなと。

これが本書における要諦だと、個人的には思いました。

以下は、本書を引用しつつ、個人的な考えのメモ。

「生産性=善」と考えるのをやめよう

「生産性=善」と考えるのをやめよう

本書のテーマとは全然違うのですが、違った視点で「生産性=善」ではない話を書こうかなと。

世の中には「単純作業」と言われる仕事があります。

「単純作業」は、ロボットとかITとか、今だとAIによって代替されていくでしょう。

その結果として「単純作業」で給与を貰っていた人は、仕事が無くなってしまいます。

では、仕事が無くなった人たちはどうすれば良いのでしょうか?

知的な創造性のある仕事をすべきだという意見もあるでしょう。

しかし、それらの能力が無かったとしたら?

自分自身で考えてみれば、もし事故で片方の腕を怪我してしまったら、今の仕事は続けられますか?

それを弱肉強食、適者生存として、一蹴することは簡単です。

けれど、それが私たちが目指す未来として、良いのものなのかは、改めて考える時間を作った方が良いのではないか?と個人的には思っています。

つまり、生産性の高い人しか生き残れない社会って、本当に良い社会なのか?ということです。

自分は生産性が高い人間だと思っている人にとっては、どうでも良い話に聞こえるかもしれません。

しかし、前述したように、事故にあったらどうするのですか?

病気になったら?

自分の子どもが生産性の高い子どもではなかったら、捨ててしまうのですか?

近年では、AIの進化が目覚ましいです。すでに、多くの人間よりも優れた出力、生産性の高いAIがたくさん登場しています。

自分もいろいろと試していますが、一番わかりやすいのはスライドを作るAIでしょう。

もうね、数分で良さげなスライドがサクッとできてしまうわけです。

もう人間はAIに勝てないでしょう。

結局、生産性を求める、生産性に価値を置きすぎる社会は、AIと戦うことにもなるわけです。

自分はAIよりも優れていると自負できる、それを証明できる人がどれだけいるでしょう。

試しに、ChatGPTで、SNSマーケティング戦略とか何でも良いので、聞いてみてください。

そしてよーいどんで、自分でもそのテーマについて、テキストで書きはじめてみれば、AIの圧倒的な生産性に度肝を抜かれるでしょう。

そう、もはや生産性に価値を置く社会は、崩壊しつつあるのです。

単純作業の人たちを追いやって、生産性を上げて、ゆったり構えていたら、自分たちもAIによって追いやられつつあるとも言えます。

だから、生産性信仰は、そろそろ辞めるべきなのではないかなと個人的に思っています。

ちなみに、自分が考える理想的な社会としては、仕事の大半はAIに担ってもらい、ベーシックインカムによって、最低限の生活を維持し、人間は悠々自適に好きなことをして過ごすというもの。

ベーシックインカムによって、生産性の呪縛から解き放たれることで、より人間らしい生活が送れるのではないかと考えています。

怠惰は自己防衛本能の表れ

「怠惰」だと見なされている行為は、実際には、自己防衛本能の強い表れなのだという。
やる気が出ない、目標が定まらない、といった「怠惰」な状態になるのは、心や身体が安静や静謐を求めて悲鳴を上げているからだ。疲労がたまっているときには、心身の訴えを聞き、その声を尊重して、ようやく回復へと向かえる。

これは確かにそうかもしれません。

休みたいと思っている時は、心と体が休息を欲しているという話です。

で、そこで無理しすぎると、壊れてしまうということ。

若い時は結構持つというか、無茶な生活をしていても何とかなるのですが、歳を取ってきて、その無茶がかなりストレスになっていたことに気づきました。

だから、ちゃんと休息は取った方がよいかなと。

というか、自分の場合、ストレスによって顔面神経麻痺を2回経験しているので、そんな自分が言っても説得力は無いかもしれませんが。

いろいろと無理をしすぎました。

人の苦しみはたいてい外部からは見えない

問題を抱えすぎて困っている人が怠惰に見えるのはなぜだろうか。
理由の1つは、人の苦しみはたいてい外部からは見えない、ということだ。

これは今、多くの人間が抱える問題というか、課題というか、テーマでもあるかなと思います。

仕事に限らず、家族、友人、恋愛などにおいても、他者の心の中が見えないため、外部からはどんな状態なのかわからないということです。

そして、それは自分の心も外部からは見えないということ。

自分としては、その解決方法として、何でも話してしまうようにしています。

かなりオープンに自分のことを話すのですが、話すことで自分自身が楽になるというのもありますし、それが周りに伝われば、多くの人がわかってくれます。

疲れていて休みたいと言えば、多くの場合、休ませてくれることがほとんどです。

ただ、それができないというのが現実で、それは固定概念、本書で言えば「怠惰のウソ」というわけ。

ぶっちゃけ、自分は本当にいろいろなことをオープンに話してしまいますが、今のところ、それによってマイナスになったことはありません。

といっても、実践するには、相当な出来事がないと難しいのかなとも思います。

自分は上司になって、いろいろと失敗をした結果、部下と友人から自分の悪い部分の指摘を受け、そこから変わりました。

自分の人生においても大きなターニングポイントで、それが無かったら、たぶん、難しかっただろうなと。

だから、頭ではわかっていても、実践するのが難しいのは、理解できます。

あくせく働くことは、のんびりするよりも道徳的に優れている

「怠惰のウソ」とは、「あくせく働くことは、のんびりするよりも道徳的に優れている」「生産性の高い人は生産性が低い人より価値がある」という考え方のことだ。表立っては語られないが、この価値観は世の中の常識になっている。

本書のテーマでもある「怠惰のウソ」についても少し書いておこうかなと思います。

個人的にも、今の社会は、まさに働くことに価値があり、生産性を高めることに価値があるというのが常識かなと。

固定観念と言っても良いかもしれません。

ただ、この考え方というか、常識は本当に正しいのだろうか?と一度疑って考えてみるのが良いかなと。

ここに囚われてしまうと、一生そこから抜け出せなくなってしまう気もするからです。

人間は歳を取る生き物であり、私たちは歳を取るごとにどんどん能力が落ちていきます。

言ってしまえば、生産性が低くなっていくのです。

また、体力も落ちていきますから、若い頃のようにバリバリ働くことはできず、休む時間も必要になります。

若い人に比べれば、のんびりしているように見えることも多いでしょう。

つまり、今の常識を是とするならば、歳を取るかぎり、自分自身の価値が下がっていくだけなのです。

経験の積み重ねも能力として価値があるという方もいるでしょう。

しかし、情報化社会においては、相当ユニークな経験や体験以外は、すぐに価値が無くなってしまいます。

そして、AIの進化により、経験の価値の下落はさらに加速していると言えるでしょう。

経験が無くても、AIがサポートすることで、経験不足をカバーできるようになってきたからです。

なので、やはり生産性に価値を置く社会は、限界なんじゃないかなと思います。

時間の無駄使いこそ人間らしさ

「時間の無駄使い」は人間の基本的欲求だ。
この事実を受け入れて、健やかで楽しく、バランスの取れた人生を始めよう。
自分の「怠惰」な本性など恐れなくてよいのだ。

これは自分も最近思っているのですが、時間の無駄使いってすごく貴重なことというか、それが人間らしさなんじゃないかなって思っています。

というのも、時間が貴重であることは、多くの人が認識していて、時間を効率的に使うことが大切というのが今の常識です。

確かに、時間は有限であり、重要なのことは間違いないのですが、それだけ価値があるからこそ、無駄使いすることが贅沢とも言えるかなと。

個人的に思ったのは、大きな家ってタイパが悪くないですか?って話。

どう考えても大きな家に住むのって、効率的とは思えません。

でも、みんな大きな家に住みたいですよね。

それが富の象徴でもあるというのもあるかもしれませんが、無駄に長い廊下を歩くことに、贅沢さを感じているというのもあるのかなと。

自分で決める権利の重要さ

自分の人生を自分で決める権利を奪われると、やる気を出す理由はなくなり、頑張る意味も見出せない。

自分はベンチャーで働いていた時、まさにこの自分の人生を決める権利を奪われた状態になったことがありました。

結構長い期間。

そのせいで、メンタルはかなりやばかったなと。

また、友人や家族の話で、そうだなあと思ったのは子育てですね。

子どもが中心になるので、自分のやりたいことなどはすべて後回しになります。

育児ノイローゼと言われたりもしますね。

子育てが厳しくなったのは、日本の場合、核家族化が原因だと思っています。

核家族化が悪いということではなくて、核家族化によって、主に母親の負担が大きくなったという話。

様々な家電によって家事などが効率化されて、昔よりも育児は楽になっていると思っている人もいるかもしれません。

しかし、前述したように、育児の大変さは仕事量ではなくて、自分に決定権がないことです。

それが一番の負担になっているという話。

昔だったら、祖父や祖母、他の家族が面倒をみることができましたが、核家族化になったことで、それが難しく、以前よりも自己決定権を奪われている時間が増えているんじゃないかなと、個人的には思っています。

まあ、嫁姑問題とか他の問題もあるので、単純に核家族化が問題とは言えませんが、少なくとも育児に対する母親への負担は増えているかなと。

イクメンなんて言われて久しいですが、それでも結局多くの過程では、母親に負担が偏っていることが多い気がしています。

その点を解消しないかぎり、母親が自己決定権を持てる時間を増やさない限り、育児の大変さは今後も変わらないのかなというのが、個人的な見解です。

なので、育児をしている母親、育児をした母親、もちろん男手一人で育てた父親の方も、個人的には本当に凄いなと。尊敬しかありません。

サボるのも大切

「怠惰」な行動は、数世紀にわたって悪者扱いされてきたが、実際は何も悪くないし、有害でもない。サボりは人間の標準仕様であり、頭をスッキリさせて健やかにいるためには働かない時間が必要なのだ。

仕事の合間にダラダラとネットをしてしまうのも、次の仕事の生産性を上げるのに必要と本書では書かれています。

昔で言えば、タバコ休憩なんかもそうかもしれないですね。

タバコ休憩については、悪として言われ続けていますが、個人的にはタバコを吸わない人も休憩を取る時間を確保する方が、みんなハッピーだと思っています。

ところが、タバコ休憩が悪になり、結果タバコを吸わない人たちも休みにくくなるという・・・。

そこまでして自分を追い込みたい理由が自分にはわからないのですが、これももしかすると「怠惰のウソ」によって洗脳されているからかもしれません。

仕事の時間はもっと短くすべきでは?

就業時間の設定は、「人間は8時間程度は座って作業をこなせるはずだ」という見立てに基づいているが、そもそもこの前提が現実的ではない。

人類は様々なものを発明し、仕事の効率性、生産性は飛躍的に向上しました。

なので、同じ時間働いていても、昔よりも多くのものを生み出しているのです。

そして、この流れは今後もずっと続くでしょう。

しかし、それが本当に良い姿なのでしょうか?

生産性が上がったら、その分、休む時間を増やすという選択はできないのでしょうか?

まあ、資本主義社会は競争ですから、この呪縛からは逃れられないのでしょうが、昔に比べれば圧倒的に仕事のストレスは高いと思います。

内容も高度に、複雑になっていますし、必要な知識も多いですし、スキルも求められます。

でも、給料は昔の人よりも、物価に対して低かったり・・・。

そろそろ、そんな状態を変える時期に来ているんじゃないないかなと。

人類の発展を多少遅らせたとしても、人間がゆったり過ごせる社会の方が自分は良いと思うのですが、どうなんでしょうね。

人類の発展が100年遅れたところで、誰が困るんだろうなと。

宇宙という大きな視点で見れば、地球でも良いですけど、100年なんてゴミですよ、ゴミ。

部下を管理して逆にモチベーションが下がる

マネジャーは部下の仕事を細かく管理し、生産性を最後の一滴まで搾り取らねばと考えがちだが、マイクロマネジメントをされると部下はイライラし、モチベーションが下がるものだ。

これは多くの管理職の方が間違えていることで、自分も上司になった時には、完全に間違えていました。

部下をコントロールして、自分の思い通りに動かそうとしていたわけです。

結果、部内の空気は悪くなり、部下の不満も溜まっていて、生産性も下がっていました。

これは管理職という言葉にも原因はあるのかもなあと。

そもそもは、マネージャーです。芸能人とかのマネージャーとかって、芸能人の人を細かく管理はしないですよね。

その芸能人の価値を最大限に活かすことを考えて行動するわけです。

なので、管理職になったら、部下の価値を最大限に活かすことを考えるのが良いのではないかと思っています。

と言っても、なかなか難しいんですけど。

情報に飲み込まれない

情報はあまりに多すぎて、そのせいで私たちは被害を受けている。

これは自分も大いに感じているところです。

その昔ですが、iGoogleというサービスがあって、毎日4000サイトぐらいの更新情報をチェックしていました。

今思うと異常だなと。

最近は、かなり自分で情報の取得を制限しています。

例えば、Xとかは、かなりフォローを外しました。

RSSリーダーも使わなくなりましたし。

その理由として、情報を得たことによって、それに脳のリソースが奪われてしまうというのがあります。

ニュースを見たら、そのことについて考えてしまいますよね。

それが脳のリソースを奪い、時間も奪っているわけです。

なので、それをできる限り減らそうと日々努力しています。それでも見ちゃいますけど(笑)

以前、仕事をしていた時に、メールを見すぎないように、1日のメールポイントを決めているという方がいました。

当時は、メールには即返信というのが自分の中で常識というか、ビジネスでの当たり前だと思っていて、理解はできませんでしたが、今は非常によくわかります。

不要なメールを見なくするだけでも、かなりメンタル的には良いかなと。

自分の場合には、miscというフォルダを作り、どうでも良いメールはフィルタで全部miscに移動するようにしています。

miscはその他という意味。これも昔仕事で一緒になった方がやっていた手法で、丸パクしました。

と、まだまだ本書に面白い内容が多く、キリが無いのでこのあたりで。

大切なことは前述しましたが、「無駄な時間、怠惰な時間にも価値があると考えることができると、それだけで精神的なストレスはかなり軽減される」ことかなと。

休むことを恐れてはいけないという話でもあります。

無理をしすぎて、自分のように顔面神経麻痺にならないようにご注意ください。

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