個人的に思ったことをつらつらと。
すり合わせる、歩み寄るのが目的になるとしんどくなる
愛の本質は理解で、理解のために対話が必要なのかもで「対話によって相手とすり合わせをする必要性って無いのかな」と書きました。
その一番の理由は、「すり合わせる、歩み寄るのが目的になるとしんどい」から。
何でもそうですけど、自分の心に反して、無理やり相手に合わせようとするのって、しんどくないですかね?
自分だけかもしれないけど。
相手に合わせることに喜びがある時は良い
相手に合わせたいという思いがあって、そこに喜びがあるときは、個人的に全然合わせること自体が嬉しいです。
だから、「すり合わせる、歩み寄りたい」って思います。
ただ、四六時中そういう状態でも無いというか。
時と場合によって、心の状態に違いがある
例えば、仕事で疲れているとき。
「すり合わせる、歩み寄るのが目的」の対話をするのは、結構辛いかなと。
お互いの違いを認識するだけならば、問題は無いと思うのですが。
つまり、時と場合によって心の状態に違いがあるということです。
お互いに精神状態が良ければ、「すり合わせる、歩み寄るのが目的」でも良いというか、そもそもたぶん、「すり合わせる、歩み寄るのが目的」じゃなくても、お互いに「すり合わせる、歩み寄る」と思うんですよね。
でも、お互いに精神状態が悪ければ、きっと「すり合わせる、歩み寄る」のが難しくなって、それが悪い方向に行くような気がしています。
そもそも対話の目的はお互いの理解ではないか?
これは個人的になのですが、そもそも対話の目的ってお互いの理解なんじゃないかなって思っています。
話すことで、お互いの違いや深い部分の理解が進み、お互いの心の距離が縮まっていくというか。
精神状態が悪い時って、言ってしまうとバリアみたいなものがあって、それ以上、心の距離を縮めることって難しい気がします。
でも、今、精神状態が悪いということを理解することはできますよね。
それが対話なんじゃないかなって。
普通にしていても、精神状態が悪いことってありますし、それをちゃんと伝えられる関係が一番良い関係なんじゃないかという話。