評価・レビュー
☆4/5
ソクラテスの弁明とは西洋哲学の始祖的なソクラテスが、裁判にかけられた時の弁明をプラトンが書いたもの。
昔自分は、無知の知と学びましたが、現代では少しニュアンスが違っていて、無知の自覚と言われているようです。
本書だと、
私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で
プラトン. ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫) (p.23). 光文社. Kindle 版.
とあり、「知っている」ではなく、「思っている」というのが正しいのではないかという話みたいです。
また、ソクラテスの弁明では、死について言説も有名で、
死を恐れるということは、皆さん、知恵がないのにあると思いこむことに他ならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。死というものを誰一人知らないわけですし、死が人間にとってあらゆる善いことのうちで最大のものかもしれないのに、そうかどうかも知らないのですから。
プラトン. ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫) (pp.42-43). 光文社. Kindle 版.
の部分かなと。
つまり、死については誰も知らないわけで、何で恐れるの?ということ。
裁判にかけられているので、純粋に無知や死について語っているわけではなく、そういう意味ではすこしふんわりしているところはあるかなとは思います。
また、解説についても、それらのテーマを深掘りするのではなく、ソクラテスやプラトンについての記述がメインなので、読み物としては良書かなと。
余談:弁明というより自分自身への説得のように思える
これは本書を読んで個人的に感じたことなのですが、弁明というよりも自分自身への説得のように思えました。
訳文によっても印象は変わるのかもしれませんが。
個人的にですが、弁明というからには、起訴内容が正しい情報ではないことについてちゃんと反証すべきなんじゃないかなと。
なんとなく、相手をやり込めることに終始していて、論破はできていても反証はできていない印象です。
もしかすると、当時の弁論術とか、対話術なのかもしれませんが。
この手法というか、弁明はその点は一貫していて、有罪が決まった後も同じ調子なんですよね。
結局何が言いたいかというと、この裁判、出来レースだったんじゃないかなと。もう根回しは済んでいて、有罪が確定する裁判だったということ。
だから、起訴内容に関する反証を捨て、論破することに終始したのかなと感じました。
個人的な感覚としては、
お前たちは私を死刑にすることで自分たちが勝ったと思っているだろう。しかし、それは違う。私を死刑にした時点でお前たちの負けなのだ。なぜなら、私は死を恐れていない。だから、私は率先して死を選ぼう。むしろ死を与えてくれてありがとう。これで私は死を知ることができる。そして、私が死んでしまえば、私がこの裁判で論破した人たちは、一生私に勝つことはできない。なぜなら私はもういないのだから。
的な感じ。
だから、メレトスやアテナイの人たちを論破することが重要だったのかなと。彼らが自分には遠く及ばない愚かな人間であることを示した上で、勝ち逃げするということ。
そんな穿った見方があっても良いのかなとは思いました。
こういうイタチの最後っ屁みたいなやり方って、個人的に若い時は結構やってたときが多くて、なんかソクラテスの弁明を読んでいたら、その時の感覚がふとよぎったというのはあります。
最後まで自分の優位性を残したいというプライドなのかな。
こんなことを書くと、偉い方たちからは怒られそうですけど。