
先日読んだ本で、目を瞑ると見えなくなるから存在しない、存在すると思っているのは物質観にとらわれているからだ的な話があって、考えたことをつらつらと。
そもそも目を瞑ると見えなくなるから存在しないというのはちょっと違うのではないかなとか。
例えば、耳は?
匂いは?
肌の感覚は?
それらの感覚も閉じてしまえば、目を瞑るのと一緒だという考えもあるかもしれない。
しかし、すべての五感を閉じると、人は刺激を求め、さらに幻覚を見たり、妄想をしてしまうという実験結果がある。いわゆる感覚遮断実験だ。
人間には適度な刺激が必要という話。
目で見ていないからといって、存在しないわけではなく他の感覚で刺激を受けているから、見えなくても安心できるということだ。
そもそも何も感じないということは、存在していないのと同義ではないのか?
そういう意味で、すべての感覚がなくなれば、世界は存在しないし、結果として自分も存在しえず、自我さえ存在しない。
そうなると、そもそも大我さえ存在しえない。
であるならば、存在しないものに存在を求めることこそが無明、人間の業なんじゃないだろうか。
また、自分の思考、精神しか存在しない世界があったとして、それをどうやって認識するのか?
我考えるゆえに我在りと言ったとて、認識しているのは自分のみであり、他者が存在しなければ、自分が存在していることが証明できない。
加えて言うならば、自分が解脱できているかどうかも、他者との相対的な判断でしか無い気もする。
何が言いたいのかというと、結局は他者との相対によって自分が認識されているということ。
他者が存在しなければ、自分の存在を証明できないということ。
であるならば、目を瞑っても世界は存在してしまうという話。
と、個人的には思うが、どうだろう。