行為には善悪が無く、コンテキストによって善悪が成立するのでは?

投稿者: | 2025年12月18日
NovelJam2025 嵯峨景子賞
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そもそも行為自体に、善悪的な解釈をしようとすることが間違ってないだろうか?

例えば、窃盗。

窃盗自体には善悪は無くて、結果なのか、なんか理由づけがあるから、善にも悪にもなるという話。

一般的な社会において、盗むことは悪だが、例えば、戦争をしている状態なら、スパイは善とされるみたいな。

つまりだ、善悪の本質は、その行為自体では無くて、理由づけの方にある。

コンテキストと言って良いだろう。

で、これは、善悪だけの話ではない。

あらゆる物事が、結局コンテキストによって判断というか、価値が変わるという話。

コンテキストの解釈の仕方と言っても良いだろう。

結果論ではなく、あくまでもコンテキストの解釈というのも重要な点だ。

結果論の場合、何かが起き結果がでないと判断できない。

しかし、コンテキストの解釈の場合は、仮説でも議論ができる。

だから、我々は善悪の議論ができるのだ。

そして、コンテキストの解釈でしかないのであれば、そのときどきで善悪も変わるし、判断も価値も変わる。

裁判がわかりやすいかもしれない。

同じ犯罪類型だっとしても、そのときの状況によって、情状酌量になったりする。

これは、コンテキストの解釈が異なるからだ。

言葉は単体では意味をなさず、結局、どういうコンテキストかによって言葉が変わってくる。

なぜ、我々がコンテキストを重要視するようになったのかは、また改めて考えてみたい。

少なくとも社会的な動物であると言われるのが、一つ理由としてありそうだ。

また、言語がどうやって発展していったのかも、ヒントになりそうな気がする。

そして、ホモ・サピエンスが他の種を圧倒したのは、このコンテキストの解釈ができるようになったからではないか?とも考えられる。

飛躍し過ぎなのかもしれないが。

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