
そもそも行為自体に、善悪的な解釈をしようとすることが間違ってないだろうか?
例えば、窃盗。
窃盗自体には善悪は無くて、結果なのか、なんか理由づけがあるから、善にも悪にもなるという話。
一般的な社会において、盗むことは悪だが、例えば、戦争をしている状態なら、スパイは善とされるみたいな。
つまりだ、善悪の本質は、その行為自体では無くて、理由づけの方にある。
コンテキストと言って良いだろう。
で、これは、善悪だけの話ではない。
あらゆる物事が、結局コンテキストによって判断というか、価値が変わるという話。
コンテキストの解釈の仕方と言っても良いだろう。
結果論ではなく、あくまでもコンテキストの解釈というのも重要な点だ。
結果論の場合、何かが起き結果がでないと判断できない。
しかし、コンテキストの解釈の場合は、仮説でも議論ができる。
だから、我々は善悪の議論ができるのだ。
そして、コンテキストの解釈でしかないのであれば、そのときどきで善悪も変わるし、判断も価値も変わる。
裁判がわかりやすいかもしれない。
同じ犯罪類型だっとしても、そのときの状況によって、情状酌量になったりする。
これは、コンテキストの解釈が異なるからだ。
言葉は単体では意味をなさず、結局、どういうコンテキストかによって言葉が変わってくる。
なぜ、我々がコンテキストを重要視するようになったのかは、また改めて考えてみたい。
少なくとも社会的な動物であると言われるのが、一つ理由としてありそうだ。
また、言語がどうやって発展していったのかも、ヒントになりそうな気がする。
そして、ホモ・サピエンスが他の種を圧倒したのは、このコンテキストの解釈ができるようになったからではないか?とも考えられる。
飛躍し過ぎなのかもしれないが。
