感情を出すとは、理解して欲しい、共感して欲しい

投稿者: | 2025年5月25日

思ったことをつらつらと。

AIみたいだと言われる

最近、「AIみたいだ」と言われる。

自分から感情を感じられないという話。

確かに、自分は感情の起伏が激しくないところはある。

ただ、感情はある。

けれど、その感情が0に収束するのが早いというか。

イラッとしても、すぐにそのイラッが収束して、普通になる。

だから、感情はあるのだ。

すぐに0に収束してしまうので、怒っているように思われない。

で、AIみたい。感情が無いみたいという話。

これは正鵠を射ている。

感情を出すのが難しい

感情を出すのを、無意識に押さえている傾向がある。

それは、人から嫌われたくないという感情から。

で、感情を出す練習をしている。

ところがなかなかうまくいかない。

指摘された点でもあるのだが、結局、感情を出すという行為をシステマティックにすると、それがまたAIみたいでもあるからだ。

これも鋭い指摘。

グサグサと心に刺さる。

最近、「感情を出したほうが好かれる」という本も読んだ。

そして、こういう知識ベースというか、情報を取得する行為もまた、何かズレてるのかもなとも思う。

報告は必要ない

仕事では報連相は必要だけれど、プライベートの人間関係においては、報連相はそこまで必要ない。

報告したところで、相手は何を返せばよいのかわからない。

そういうことを言われた。

その時、自分が最初に思ったのは、関係している話だから、情報は伝えた方が良いということ。

で、一旦踏みとどまる。

果たして、それは本当に言いたいことなのだろうか?

自分の感情を理解して欲しい

シャワーを浴びて考える。

ああ、違うなと。

そういうことじゃないだと思った。

本当は自分の感情を理解して欲しいんだと気付いた。

それに対して共感して欲しいということ。

仲間だと確認したいというのが根っこにあるのかもしれない。

感情を出すとは、理解して欲しい、共感して欲しい

いろいろなことが繋がった気がする。

感情を出すというのは、理解して欲しい、共感して欲しいなんだ。

48歳にして、学ぶ。

そして相手が感情を出してきたら、理解して欲しい、共感して欲しいだから、理解すること、共感することが基本になるのだろう。

怒りは理解されないことへの反発

もちろん、感情と感情がぶつかることもある。

怒りがその典型例な気がした。

感情と感情がぶつかるというのは、結局、お互いに理解して欲しい、共感して欲しいのぶつかりあいで、お互いに理解も共感もできない、またはしようとしてない状態なのだろう。

一方的に怒っているときも、きっと同じで、理解を放棄しているのかもしれない。

ただ、要求をのませたいだけの場合もある気はするが。

好きと言いにくいのは理解、共感が得られるかわからないから

相手に好きと言いにくいのは、好きという感情に対して、理解、共感が得られるかわからないからなのだろうなと。

振られるというのは、相手がこちらの気持ちを理解、共感していないということ。

理解、共感していたとしても、受け止められないというのもあるかもしれない。

だから、人間関係はそこで終わる。

人は理解、共感されたい生き物だから。

理解も共感もされない人といっしょにいるのは、苦痛でしかな無いだろう。

感情が未来予測における差分だとすると、将来的に理解、共感が得られるのであれば、関係性の継続は可能なのかもしれない。

うーん、わからんな。このあたりは、別途考えたほうが良さそう。


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