
思ったことをつらつらと。
それは人が知らないことを知ったことで、自身の自尊心を確保できるからではないか?
と思ったりした。
だから、それを否定されると自尊心が傷つくため、認めたがらない。
その根底には、おそらくであるが、無知に対するコンプレックスがあるのではないだろうか?
つまり、無知であることが怖いという話。
または、無知であることを理由に蔑まされたり、いじめられたりしたことによって、無知に対する忌避感があるのかもしれない。
知識というものは、時代とともに変化していく。
また、新しい情報が増えていき、世界が開拓されていく。
それによって、自分が正しいと思っていた情報が間違いであった、または間違いになることもある。
「神はサイコロを振らない」は、かの天才物理学者 アルベルト・アインシュタインが述べた言葉だ。
量子力学の確率論的な解釈に対して述べた言葉とされているが、現代においては確率的な解釈が正しい(正確に言えば、確率的な結果しか得られていないという感じ)。
つまり、天才においても、思い込みや固定観念によって考えを誤ることがあるのだ。
大切なことは、否定的な意見が出た時に、それに耳を傾けることではないだろうか。
お互いに対話することではないだろうか。
相手の意見を一度受け入れてみることではないだろうか。
その結果、自分が無知であったことを認識するかもしれない。
しかし、人間はすべてのことを知ることはできない。
知らないことの方が圧倒的に多いのだ。
宇宙における地球のごとく、1人の人間が知っていることなどほんのわずかなのだ。
だから、無知であることは、当たり前であり、誰しもが無知なのである。
アリストテレスは「無知の知」ではないけれど、自分は無知であることをまず認識することが肝要ではないか。
自分が無知であることを認識できれば、陰謀論に対して正しく向き合えるし、たとえ陰謀論を一度信じてしまったとしても、他者の意見を聞くことで、陰謀論の間違いに気づくことができると個人的には考えている。
自身が無知である恐怖というのは、結局のところ、誰かと比較し、相対的に自分が上である、優位であることを示したいということだ。
そしてそれは、生物としての生存本能に近い部分にある。
だから、誰しもが持ってしまう、誰しもが陥ってしまうことなのだ。
そのことをまず認識すれば、道を違えることはないように思う。