#書いてみたものの、うーん、なんか上手くまとまってない感。しっくり来てない。言いたいことと論点がズレているのかも。
もう30年ぐらい前かな、中学生の頃に1人でもやもやと考えていたことがあります。
それは、
- その人を好きになり、性的魅力を感じるのか
- 性的魅力を感じたから、その人を好きになるのか
という疑問です。
個人的な理想形は前者の「その人を好きになり、性的魅力を感じる」流れなのかなという結論で今に至っています。
そもそもの発端
自分は男性ですので、中学生よろしく、女性に恋をしていたわけですが、そこで疑念が湧いてきました。
当時は日本でもフェミニズム的な運動が盛んになりつつありましたが、性的マイノリティーは差別され、笑いのネタとしてもよく使われていた時代です。また、今ほど情報はありませんでしたが、性的マイノリティーの知識も少なからず持っていました。
その時に思ったのは「同性を好きになる人が存在するのに、なぜ自分は女性に恋をしているのだろう?」という疑問です。
つまり自分はその人が好きなったから性的な想像しているのか、それとも性的な想像をしているから好きになったのかという話。
本能と理性について
人間というのは遺伝子という設計図によって形作られています。その原理上、生物であるオスとメスという概念が存在し、その設計図に準じた形で身体が形成されていきます。
本能的な部分についても遺伝子の影響は大きく、また遺伝子によって人間の性格の傾向がある程度わかりつつあります。
しかしながら、人間には理性というものが存在します。
理性には定義がありますが、個人的に本能に対する人間の抗いと捉えています。イメージとしては、設計図によって決められたものが本能であり、その設計図の枠を超えた部分が理性という感じです。
未来の恋愛
ここで視点を少し変えてみます。はるか未来の社会です。人間はどのように進化しているでしょうか。
個人的に人間はさらに理性的な方向へ向かっていくのではないか?と考えています。もっと言えば、理性によって自身を制御できる状態を得ているのでは?ということです。
そのような社会における恋愛とはどのようなものでしょうか?
本能の赴くままに性を貪っているでしょうか?
それとも、相手との対話を大切にし、お互いの気持ちが確認できた上で性的な行為をするのでしょうか?
少なくとも本能の赴くまま性を貪っているような状態になっているとは思えませんよね。そう考えると、少なくとも後者に近いのではないかと思っています。
それが冒頭で述べた「その人を好きになり、性的魅力を感じる」という流れなのではないかと考えた理由です。
我々は男女である前に人間である
この考えに至った時、1つの結論に行き着きました。それは「我々は男女という性である前に人間である」ということです。
なんと当たり前の結論と思われるかもしれません。しかし、もしこれが正しいのであれば、やはり我々は「その人を好きになり、性的魅力を感じる」という流れでないとおかしいですよね。
ただ、その境地に立つのはとてもむずかしいとは思いました。単純に遺伝子的な影響もありますし、後天的な教育の影響もあるためです。頭ではわかっていても行動が伴わないというわけです。
しかしながら、個人的に考え方の根幹として「我々は男女という性である前に人間である」ということは忘れてはいけないのかなと思っています。
皆さんはどう思いますか?
- その人を好きになり、性的魅力を感じるのか
- 性的魅力を感じたから、その人を好きになるのか
どちらでしょうか? またどちらの方が人間として正しいあり方だと思いますか?