
結局のところ、不寛容さが、争いを生んでいるのではないか?
不寛容とは、寛容ではないの反対であるが、不寛容という生き方は、独善的のようにも見える。
しかし、不寛容だけで生きるのは難しい。
禁止することと、不寛容であることの違いがある。
禁止はルールだが、不寛容は感情ではないか。
つまり、不寛容という感覚が発生している。
その感情の根底には、やはり自尊心がありそうだ。
寛容になれないのが、不寛容ではなく、自尊心を傷つけられたことで、不寛容という感情が発生するということである。
ヴォルテールの寛容論では、過去の宗教の寛容さ、不寛容さから、話を進めている。
しかし、不寛容かどうかは、教義の問題ではなく、感情の問題なのではないか?
と、個人的に思った。