相手を完全にコントロールできないという事実を受け入れることができない人たち

投稿者: | 2025年10月1日

相手をコントロールしたい、自分の思う通りに動いて欲しい。

そのような欲望はもしかすると、誰しもが持っているものなのかもしれない。

しかし、相手を完全にコントロールすることはできない。

それは、行動の面でも、心情の面でも。

特に、心については、表向き従っているようでも、実際にはどうかわからない。

そもそも、相手をコントロールして、一体何がしたいのか。

相手を支配することが目的なのか。

相手をコントロールしようとした時点で、相手との間の対等な関係性は、完全に破壊される。

一度、対等な関係性が破壊されると、もはや修復は難しい。

そうなると、お互いの関係性によって得られていたメリットを大きく失う。

このメリットは、協力によってより大きなことができる、または助け合いができるという、協調、または相互補助、補完的なものだ。

あくまで、相互にメリットが発生することが、対等な関係性でもたらされると言える。

それが、相互で無くなった場合、一方的な搾取となる。

そうなると、関係はいつか限界を迎えることになるだろう。

なぜなら、搾取は、いつか枯渇するからだ。

だから、相手をコントロールしようとするのは、最終的にデメリットが大きいと言える。

折角作り上げた関係性を破壊することになるからだ。

それにも関わらず、なぜか、世の中には、相手を完全にコントロールしたがる人たちが多い。

数多の書籍や様々な情報があるが、どんなものであっても、相手を完全にコントロールできると述べているものは無い。

周知の事実のはずなのに、なぜか、その事実を受け入れることができない。

それはなぜなのか?

単純に情報が、知識が不足しているからだろうか。

それとも、本能的なものが理性的なものを上回る、つまり、欲望に負けているということなのか。

もしかすると、コミュニケーションの仕方を知らないのかもしれない。

そのあたりについては、実際に当事者に話を聞いてみたいというのはある。

結局、何が言いたいのかというと、人間関係において、相手に何かを要求して、相手を無理やりコントロールすることはできないということだ。

相手が動くには、何かエサが必要で、さらに、本人がやる気を出さなければ意味がない。

強制的に何かをさせようとしても無理なのだ。

自分にできることは、自分はどうしたいか?だけなのだと思う。

アドバイスを求められたとしても、あくまで、自分だったらこうするぐらいしか言えない。

そもそも、自分のアドバイスに従って、うまくいかなかったときに、その責を問われる可能性もある。

いわゆる、他責思考だ。

だから、自分にできるのは、やはり自分はどうしたいか?だけなのだろう。

対人関係において、相手に何かを要求するというのは、そもそもコミュニケーションの取り方として、あまり良くないということ。

お願いや依頼はあるだろう。

しかし、要求はちょっと違う。

このあたりは、言葉のニュアンスの問題もあるかもしれない。

ここでの要求とは、相手を強制的にコントロールしようと迫ること。

そして、友人にしろ、恋人にしろ、夫婦にしろ、どちらかが要求をはじめたら、その時点で、その関係性は終わりなのだろう。

対等な関係ではなくなるから。

そもそも相手のことが好きであるならば、要求することは無いだろう。

要求した時点で、力関係がはっきりし、上下関係ができてしまうからだ。

とてもシンプルな話のように思う。

しかし、それがたぶん、理解できないのだ。

人間関係は対等であるときが一番良好であるということが、おそらくわかっていない。

自分が得することが、自分が上であることが、良好な人間関係だと思っているのだろう。

しかし、上下関係ができた時点で、相手は真意を見せることはなくなる。

あくまで表面上だけ合わせる存在になる。

もはやそれは、AIに近い存在にとも言えるのではないだろうか。

表面上だけ、コミュニケーションは取れているけれど、そこに、意思はない。感情もない。

だから、それは人間関係ではなく、人間と道具の関係に近いようにも思える。

そのような状態が良ければ、それはそれでその人にとっては幸せなのだろう。

けれど、実際に望んでいることは、そのようなソリッドなものなのか。

表面上だけ、調子を合わせるだけの道具なのか。

それは、改めて考えてみてみるのも良いのではないだろうか。

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