罪悪感が人間を縛っているのであれば、記憶を消すことで罪悪感を復活させられるのでは?

投稿者: | 2025年9月28日

我々の社会には、道徳や倫理というものが存在する。

それらは法律を補完するものだったり、法律違反ではないけれど、人としてそうした方が良いよね的な教訓めいたものだ。

ただ、ここでふと思う。

それらは、あくまで人間が社会を作り、社会をうまくまわしていくためのシステム、仕組みでしかない。

例えば、野生を見てみれば、道徳や倫理がまったく適用されない世界が存在している。

そして、それは否定されるべきものではない。

つまり、道徳や倫理は、人間が作り上げたものであって、世界の理ではないのだ。

1つだけ言っておくと、個人的には道徳や倫理を否定しているわけではないということ。

それらは社会システムとして重要であることは認識している。

ただ、あくまで、誰かが作ったものであるという事実を述べているに過ぎない。

そして、それらの道徳や倫理によって、僕たちは縛られている。

もし、道徳や倫理がない社会だったら、それは酷い世の中になっていただろう。

もうぐちゃぐちゃで、日々、悲しい出来事が絶えない気がする。

だから、必要な概念であることは間違いない。

でも、道徳や倫理に僕たちが縛られていることは、間違いないのだ。

そういう事実を言っているにすぎない。

そして、その根本にあるのは、罪悪感ではないかと思っている。

つまり、道徳や倫理に反する行為をすると、罪の意識を感じ、または、罪であると認識しているから、道徳や倫理を守っているという話だ。

道徳や倫理がなければ、罪悪感は存在しないと思う。

法律は、罪悪感にはなり得ない。

法律に違反することに対しての罪悪感はあっても、法律自体はあくまでルールでしかないからだ。

この違反こそが、道徳や倫理によって、ブレーキがかかっている点だと思う。

で、罪悪感とは、何だろうか?

道徳や倫理に反する行為をするとき、つまり、ある特定の線を越え、道徳や倫理を破るときに、感じるものが罪悪感ではないかと思う。

罪悪感を感じるとき、人は何かの線を越えているのではないだろうか。

で、その線は、人によって様々だと思う。

大切なのは、何かしらの線を越えたと自分が認識したときに、罪悪感という感情が生まれるということだ。

これはあくまで個人的にだが、人間の感情とは「未来予測と現在の差分で発露するもの」ではないかと考えている。

その理論にそって考えて見ると、罪悪感とは、未来予測において、何か悪いことが起きることがわかっていて、それを現在選択すること、または選択したことで感じるものと言えそうだ。

では、悪い未来予測とは何か?

端的に言えば、自分自身の未来像、イメージの変化ではないかと思われる。

ある線を越えてしまったことで、それ以降の自分自身の姿、イメージが変化してしまうということだ。

良い方向でなら問題ないが、悪い方向の場合に、罪悪感を感じるのである。

例えば、人の物を盗んだ場合、それ以降は自分自身の姿、イメージに、泥棒というものが入ってくる。

これはその後、記憶喪失にでもなって忘れない限り、一生変化することはない。

しかし、一度、泥棒という姿、イメージが入ってしまうと、その後、物を盗んだとしても、それ以上の変化はない。

つまり、罪悪感が薄れるのだ。

もちろん、まったく罪悪感を感じないということではないだろう。

人によっては、物を盗むことをやめられない自分像、イメージに罪悪感を感じるかもしれない。

それは、泥棒というイメージに、新たにプラスされていくものだ。

これは、再犯をしやすくなる心理とも繋がってくる。

一度、犯罪をしてしまえば、未来の自分の姿、イメージに影響がほとんどないからだ。

また、罪悪感においては、最初の1回、つまり、最初に線を超えるときが、一番大きい、勇気がいる、エネルギーが必要とも言える。

なぜなら、その瞬間が、一番、未来の自分像、イメージが大きく変わるからだ。

そう考えていくと、社会として再犯などを防ぐ方法は、その人が犯した罪を忘れさせることなのかもしれない。

自分がやったことを思い出せなければ、また、最初の一線を越える必要がある。

越えるかどうかは、本人次第ではあるが、その時の環境にも影響するだろう。

犯罪心理学的には、多くの犯罪は貧困が原因とされている。

もちろん、それ以外のケースも多々あるが、あくまで、一番多いのは貧困という話だ。

つまり、貧困から脱出できていて、さらに罪を忘れていれば、再犯する可能性は低くなるかもしれないということ。

ディストピア的な感じかもしれないが、人間の特定の記憶を抹消するシステムができれば、もしかすると実現できるかもしれない。

ただ、これはあくまで、道徳や倫理を兼ね備えている人物の場合に限られる。

そもそも道徳や倫理を無視して行動する人間もいるからだ。

その場合には、また別途、何か考える必要があるだろう。

大切なことは、人間は罪悪感によって縛られていて、その縛りを脱した人でも、記憶を消せば、また罪悪感に縛られるのではないか?という話。

また、罪悪感を植え付けることが、社会の秩序を保つ要素のような気もしている。

逆に言えば、何を罪悪感とするかは、教える側でコントロールできるという話もある。

そして、感情が未来予測との差分であるならば、未来の自分像、イメージが悪くなるということをもっと強調すべきなのだろう。

道徳や倫理を破るのが悪いというのではなく、未来の自分像、イメージが変化し、その結果として自分自身が苦しむという点にフォーカスするということだ。

このあたりは、改めて掘ってみたい。

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