
我々の社会には、道徳や倫理というものが存在する。
それらは法律を補完するものだったり、法律違反ではないけれど、人としてそうした方が良いよね的な教訓めいたものだ。
ただ、ここでふと思う。
それらは、あくまで人間が社会を作り、社会をうまくまわしていくためのシステム、仕組みでしかない。
例えば、野生を見てみれば、道徳や倫理がまったく適用されない世界が存在している。
そして、それは否定されるべきものではない。
つまり、道徳や倫理は、人間が作り上げたものであって、世界の理ではないのだ。
1つだけ言っておくと、個人的には道徳や倫理を否定しているわけではないということ。
それらは社会システムとして重要であることは認識している。
ただ、あくまで、誰かが作ったものであるという事実を述べているに過ぎない。
そして、それらの道徳や倫理によって、僕たちは縛られている。
もし、道徳や倫理がない社会だったら、それは酷い世の中になっていただろう。
もうぐちゃぐちゃで、日々、悲しい出来事が絶えない気がする。
だから、必要な概念であることは間違いない。
でも、道徳や倫理に僕たちが縛られていることは、間違いないのだ。
そういう事実を言っているにすぎない。
そして、その根本にあるのは、罪悪感ではないかと思っている。
つまり、道徳や倫理に反する行為をすると、罪の意識を感じ、または、罪であると認識しているから、道徳や倫理を守っているという話だ。
道徳や倫理がなければ、罪悪感は存在しないと思う。
法律は、罪悪感にはなり得ない。
法律に違反することに対しての罪悪感はあっても、法律自体はあくまでルールでしかないからだ。
この違反こそが、道徳や倫理によって、ブレーキがかかっている点だと思う。
で、罪悪感とは、何だろうか?
道徳や倫理に反する行為をするとき、つまり、ある特定の線を越え、道徳や倫理を破るときに、感じるものが罪悪感ではないかと思う。
罪悪感を感じるとき、人は何かの線を越えているのではないだろうか。
で、その線は、人によって様々だと思う。
大切なのは、何かしらの線を越えたと自分が認識したときに、罪悪感という感情が生まれるということだ。
これはあくまで個人的にだが、人間の感情とは「未来予測と現在の差分で発露するもの」ではないかと考えている。
その理論にそって考えて見ると、罪悪感とは、未来予測において、何か悪いことが起きることがわかっていて、それを現在選択すること、または選択したことで感じるものと言えそうだ。
では、悪い未来予測とは何か?
端的に言えば、自分自身の未来像、イメージの変化ではないかと思われる。
ある線を越えてしまったことで、それ以降の自分自身の姿、イメージが変化してしまうということだ。
良い方向でなら問題ないが、悪い方向の場合に、罪悪感を感じるのである。
例えば、人の物を盗んだ場合、それ以降は自分自身の姿、イメージに、泥棒というものが入ってくる。
これはその後、記憶喪失にでもなって忘れない限り、一生変化することはない。
しかし、一度、泥棒という姿、イメージが入ってしまうと、その後、物を盗んだとしても、それ以上の変化はない。
つまり、罪悪感が薄れるのだ。
もちろん、まったく罪悪感を感じないということではないだろう。
人によっては、物を盗むことをやめられない自分像、イメージに罪悪感を感じるかもしれない。
それは、泥棒というイメージに、新たにプラスされていくものだ。
これは、再犯をしやすくなる心理とも繋がってくる。
一度、犯罪をしてしまえば、未来の自分の姿、イメージに影響がほとんどないからだ。
また、罪悪感においては、最初の1回、つまり、最初に線を超えるときが、一番大きい、勇気がいる、エネルギーが必要とも言える。
なぜなら、その瞬間が、一番、未来の自分像、イメージが大きく変わるからだ。
そう考えていくと、社会として再犯などを防ぐ方法は、その人が犯した罪を忘れさせることなのかもしれない。
自分がやったことを思い出せなければ、また、最初の一線を越える必要がある。
越えるかどうかは、本人次第ではあるが、その時の環境にも影響するだろう。
犯罪心理学的には、多くの犯罪は貧困が原因とされている。
もちろん、それ以外のケースも多々あるが、あくまで、一番多いのは貧困という話だ。
つまり、貧困から脱出できていて、さらに罪を忘れていれば、再犯する可能性は低くなるかもしれないということ。
ディストピア的な感じかもしれないが、人間の特定の記憶を抹消するシステムができれば、もしかすると実現できるかもしれない。
ただ、これはあくまで、道徳や倫理を兼ね備えている人物の場合に限られる。
そもそも道徳や倫理を無視して行動する人間もいるからだ。
その場合には、また別途、何か考える必要があるだろう。
大切なことは、人間は罪悪感によって縛られていて、その縛りを脱した人でも、記憶を消せば、また罪悪感に縛られるのではないか?という話。
また、罪悪感を植え付けることが、社会の秩序を保つ要素のような気もしている。
逆に言えば、何を罪悪感とするかは、教える側でコントロールできるという話もある。
そして、感情が未来予測との差分であるならば、未来の自分像、イメージが悪くなるということをもっと強調すべきなのだろう。
道徳や倫理を破るのが悪いというのではなく、未来の自分像、イメージが変化し、その結果として自分自身が苦しむという点にフォーカスするということだ。
このあたりは、改めて掘ってみたい。