すべての根幹は、敵味方の判別な気がする

投稿者: | 2025年11月27日
NovelJam2025 嵯峨景子賞
株式会社地獄 移住課 販売中!


書き殴った文章をAIに整理してもらった。

コミュニケーションの本質は「敵か味方か」

最近、コミュニケーションの根底には「相手が敵か味方か」という判断があるのではないかと感じている。この価値観は、単なる社会的な仕組みではなく、生物としての本能に根差している可能性がある。


生物としての優位性と「味方を作る」本能

生物は優位性を持つことで安全や繁殖の機会を得る。優位な個体の周囲に他者が集まるのは、単なる繁殖行動や生存戦略ではなく、「味方を増やす」行為として理解できる。

さらに、周囲を敵意のない個体で囲むことは、安全を確保する方法でもある。つまり、味方を作ることは生存戦略の一部として本能に刻まれている。

(ただし、カマキリのように例外もあるため、一概には言えない部分も存在する。)


信頼・宗教・思想も「敵か味方か」で動く

信頼や信念、宗教、イデオロギーといった概念も、突き詰めれば「相手が味方か敵か」の判断基準と言える。

同じ考えを持つ人は味方であり、異なる考えを持つ人は攻撃対象となる。この構図は、宗教戦争や思想対立、政治的争いの背景にも見られる。


なぜ人は「違う考え」を攻撃するのか

本来、考えが違っていても攻撃する必要はない。しかし現実には、思想や価値観の違いから衝突が起こる。初手の攻撃には明確な理由が語られないことが多く、それは攻撃の動機が論理ではなく本能に近いからではないか。


説得=味方を増やす行為

説得や啓蒙、思想の布教なども、見方を変えれば「味方を増やす」「敵を明確にする」ための行為である。「自分たちが正しいから伝える」という論理の裏側には、「同じ側に立って欲しい」という願望がある。


結論:敵味方の概念は行動の基盤

こうして考えると、人間の多くの行為は「敵か味方か」という構造に支えられている。コミュニケーション、思想、信頼、衝突、説得。それらすべての背後に、このシンプルだが強力な本能的判断が働いているのではないか。

以下、AIにまとめて貰う前の原文

コミュニケーションの本質は敵か味方かではないかと最近思っている。

そして、この敵か味方かという考え方は、あらゆるものの根幹にあるのではないか?と考えるようになった。

例えば、生物としての優位性。

優位であれば、メス、またオスが寄ってくる。

当然、種の保存という理由もあるだろうが、寄ってくるということは、味方になる、味方にするということでもあるのではないか。

生物として優位であれば、安全というのもあるだろう。

その安全というのも、味方だから安全という考え方もできる。

つまり、味方を作ることが、生物の本能の根本にあるのではないか?という話。

言葉として、味方を作るというのが、正確でない可能性もあるが、言ってしまえば、敵意のない生物で周囲を固めたいみたいな感じ。

そうすれば、安全も確保できるし、種の保存を考える上でも、メリットが大きい気がする。

と、カマキリの場合は、どうなんだろうなあ、とか思ってしまった。

まあ、それは一旦置いといて、他のことについても、敵味方が基本になっているんじゃないかなと。

例えば、信頼とか、信じるとかは、まさに味方かどうかだろう。

信じることが出来ない人は敵というわけだ。

宗教も、同じように思える。

イデオロギー自体もそうかもしれない。

結局、自身と同じ考えの人は、味方である可能性が高い。

だから、宗教やイデオロギーで集まる。味方を作る。

そして、自分たちと違う考えの人を攻撃する。

この、攻撃するというのが、まさに敵味方というのが本能的に刻まれているからではないか?という話。

そもそも、考えが違うからといって、攻撃する必要性はないのだ。

もちろん、攻撃されれば、反撃はするだろう。

しかし、その最初の攻撃は、正義なのか、何なのかはわからないけれど、何かがきっかけで起きる。

そして、なぜ攻撃しようと思うのか、その根幹については、あまり語られることはない。

なぜなら、そこに理由がないからではないか。

当然ながら、自分たちの考えが正しいからという意見もあろう。

だが、考えてみてほしい。

自分たちの考えが正しいから、相手に考えを変えて欲しいとしたら、それは味方を作る行為ではないのか?

説得するというのもそうだ。

結局は、味方になって欲しい、または、敵を明確化したいだけではないのか。

この敵味方という概念が、人間のあらゆる行為というか、行動にかなり根付いている気がしている。

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