
思ったことをつらつらと。
感じるということは、何かしら脳が機能している状態といえよう。
考えるというのは、能動的な行動であるが、感じるは受動的である。
受動的だからと言って、存在していないというのは、あまりにも暴論ではないだろうか。
例えば、スマートフォンでLINEに通知が来る。
LINEで自らメッセージを送らなかったとしても。
LINEは存在しないのか?
存在しているではないか。
それが考えていないから存在しないとは言えない。
つまり、受動的なものであっても、存在しうる。
よって、「我感じる、ゆえに我あり」と言える。
そもそも、存在しないことを証明するのは、とても難しいだろう。
自分以外の他者が存在しない可能性は否定できない。
だからといって、この世界が存在していないことの証明にはならない。
あくまで可能性の話だ。
また悪魔の証明でもある。
もし、可能性だけで論じるのであれば、君が僕を愛する可能性だってあるはずだ。
いや、君が僕を愛しているとさえ言い切れてしまう。
君がどんな存在だったとしても。
しかし、それは正しくはない。
結局、可能性は可能性でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
当たり前のことだと思うのだが。。。
しかし、こと心や精神に関する話になると、なぜか特別感を持たせようとする人が多い気がする。
心は別次元的な。
しかし、脳が停止してしまったら、心は存在し得ない。
心だけが存在することは無いのだ。