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思ったことをつらつらと。
他者と対話することで、相対的に自分自身が確立されているから
今日、気づいたことが1つあって、それは人は1人では生きていけないということ。
その一番の理由は、「他者と対話することで、相対的に自分自身が確立されているから」かなと。
これは確か、世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論にも似たような話が出てきた話だった気がします。
それを改めて実感しつつ、単純に能力とか、人間関係とか、地位とか、環境とかの相対的な関係ではなくて、精神的な面の話です。
具体的には、人と話すことで、会話じゃなくて対話することで、自分が知らないこと、自分のしたことがない経験、自分とは異なる視点、考え方、価値観を知り、相対的に自分を知るという感じ。
もちろん、共感とか、同じ考え方や価値観を知ることも、自分自身の確立につながると思っています。
だから、自分以外の誰かが必要ということ。
対話はAIでもできるけど
対話はAIともできます。
けれど、AIでは相対的に自分自身を確立するのは、難しいだろうなというのが、今の個人的な考え。
その理由は、種族が違うから。
AIと対話することで、自分自身を知ることはできると思いますし、自分自身を向上させたり、癒やしになることあるでしょう。
でも、自分自身の確立はできないんじゃないかなと。
他者からの「生きていて良いよ」という認識を得たい
というのも、自分自身の確立には、それを支えるものが必要だと思っています。
で、それを支えるものというのは、言ってしまえ、認めてもらいたいということなのかなと。
認めてもらいたいというと、承認欲求と思うかもしれないのですが、個人的にはちょっとニュアンスが違っていて、「誰かに存在を認識してもらう」みたいな感覚です。
で、存在を認識してもらうというは、突き詰めていくと「生きていて良いよ」という話なんじゃないかなとか。
承認欲求の根底にあるのも、この他者からの「生きていて良いよ」という認識を得たいという話。
また、「生きていて良いよ」というのは、あくまで自分の感覚的な表現で、存在認識とか、そういう表現なのかもしれないし、他の言葉なのかもしれません。
このあたりは、また改めて考えてみたいなと思いました。
あと、個人的には、多数の人に「生きていて良いよ」と言われるよりも、そう言われたい人に「生きていて良いよ」と言われたいんだろうなと、思っています。