チーズはどこへ消えた? – 自分が変わるには、自らの愚かさをあざ笑うことだ

投稿者: | 2024年6月26日

評価・レビュー

☆5/5

迷路の世界の住人 2匹のネズミと2人の小人は、迷路を探索して大好きなチーズを見つける。大量にあったチーズだったが、ある日チーズが無くなってしまうのだった。そして、 2匹のネズミと2人の小人はそれぞれ違う行動を取るのだが・・・という物語。

非常に短い話ながら、示唆に富んでいて、人生や仕事のヒントになるかなと思います。

個人的に20年以上前に一度読んでいて、改めて読んだのですが、やはり面白かったです。

テーマは「変化への対応」で、変化が起きた時にどう行動すべきなのか?という話。

単純に言えば、チーズが無くなった時に、

  • 新しいチーズを探しに行動するか?
  • チーズが消えるはずが無いとその場に留まるか?

ということです。

結論としては、変化に対応するために、新しいチーズを探しに行くのが正解なのですが、頭ではわかっていてもなかなか行動に移すのって難しいんですよね。

個人的には慣性の法則に似ているなと思っています。

慣性の法則とは、何等かの力が加わらない限り動いているものは動き続け、止まっているものは止まり続けるというもの。

つまり、同じ場所で安寧として過ごしていると、変化が起きた時に、何か力を加えないと動くことができないということです。

これは年齢に関係無く起きることかなと。

ただ、歳を重ねるとどうしても若い時よりも力を加えるのに労力を必要とするので、昔からの考え方に固執してしまい、結果として老害なんて言葉が生まれてしまったと思っています。

本書を読んだだけでは、変化に対応できるわけではないですが、変化に対応するための一歩を踏み出すのには良い本かなと。

サクッと読めるので、未読であれば、ぜひ一読して欲しい本です。

以下は本書から引用しながら、個人的に思ったことなどのメモ。

変化とは何かを得ること

変化とは、
何かを失うことだと思っていたのが、
何かを得ることなのだ

スペンサー・ジョンソン. チーズはどこへ消えた?

考え方というか、変化の捉え方ですね。

変化が起きると、何かしらの損失やデメリットが発生するのは確かです。

そこにフォーカスしすぎると、変化によって得られる利益やメリットを見失いがち。

なので、もっと変化によってプラスになる部分を見れば、変化に対応しやすくなるように思います。

恐怖がなければすることをする

恐怖のせいで悪いほうに考えるのだと思った。そこで、もし恐怖がなければすることをした。新しい方向に進んだのである。

スペンサー・ジョンソン. チーズはどこへ消えた?

変化が起きた時に、損失やデメリットが発生するため、人は変化を恐れます。不安になります。

しかし、もし、人間に恐怖という感覚が無かったら、変化を恐れませんし、不安にもなりません。

結果として変化に対応できるという話。

ただ、恐怖や不安という感情は、人間の生存本能としては大切で、恐怖や不安がすべて無くなってしまうとそれはそれで危険なんですよね。

個人的に思っていることは、怖がりすぎないってことかなと。

また、あまりにも怖かったり、不安だったりするときは、それを口に出して言うことも重要な気がしています。

単純に怖いとか不安ということを言うのではなくて、何が恐ろしいのか、何に不安を感じているのかを言うということです。

それが明確になると、恐怖や不安が自分が思っている以上に怖いもので無かったり、不安要素ではなかったりすることがあるため。

一番良くないのは、良くわからない状態で恐怖や不安が膨らんでいくことかなと思っています。

本書でも、

人が恐れている事態は、実際は想像するほど悪くはないのだ。自分の心の中につくりあげている恐怖のほうが、現実よりずっとひどいのだ。

スペンサー・ジョンソン. チーズはどこへ消えた?

という言葉があって、想像は時として恐怖や不安を増幅し、人間を動けなくしてしまうものだからです。

自らの愚かさをあざ笑う

自分が変わるには、自らの愚かさをあざ笑うことだ。そうすれば見切りをつけ、前進することができるのだ。

スペンサー・ジョンソン. チーズはどこへ消えた?

「認めたくないものだな、自分自身の若さゆえの過ちというものを」は、機動戦士ガンダムのシャア・アズナブルのセリフです。

人間という生き物は、自分自身の行動が正しかったと思いたい生き物。

それは若いときも歳を取ってからもずっとそうです。

なぜなら、過ち認めてしまうと、自分自身の人生を否定することになるし、そこに費やした時間が無駄になってしまう、つまり大きな損失が生まれると感じるためだと個人的には思っています。

ですので、歳を取ってからも明らかに間違っていた若かりし頃の過ちを「認めたくない」というわけです。

けれど、多くの過ちがあったからこそ、今の自分があるというのが正しい考え方なんじゃないかなって。

人間は失敗しないと学ばない生き物です。もちろん、優秀な人は失敗する前に学ぶことができるでしょう。

でも、多くの人はそうではありません。

なぜなら、天才と言われる人や、偉人と言われている人でさえ、多くの失敗をしているからです。過ちを犯しているのです。

だから、凡人が失敗することなんて当たり前。

その失敗に対してくよくよするのではなくて、あざ笑うのが良いという言葉かなと。

もちろん、なぜ失敗したのか?の原因については、認識する必要があると思います。

けれど、失敗に固執しすぎて、そこから一歩も進めないことの方が、問題というか、そもそも一歩も進めない状態が失敗なんじゃないかなと個人的には考えています。

また、あざ笑うという言葉が適切かはわかりませんが、自分は結構自分がやってきた失敗について、笑い話として人に話すことが多いです。

笑いにすることで、ポジティブな感情が生まれますし、聞いている方も楽しめるというのがあるため。

グダグダと愚痴るよりも、笑い飛ばした方が、人間関係も良くなるかなとも思います。

個人的にですが、笑いというのは、基本的に笑うことで自分が上の立場であることを認識する安心行動なのではないか?と思っています。

すべての笑いがそうではないと思いますが、少なくともお笑いというジャンルは、馬鹿な行動をしている人を笑うというのが基本にあり、笑う側は馬鹿な行動を見て、自分は馬鹿ではないことを認識できるから笑えるんじゃないかなと。

なので、過去の自分の愚行を笑うということは、自分がその時よりも成長していることの現れとも言えるのではと思います。

逆に言えば、過去の自分の愚行を笑えないということは、自分がその時から成長してない、同じ愚行を繰り返してしまう人間だということです。

まあ、そんなことをつらつらと思いました。

リンク