アラン 幸福論 (岩波文庫)を読んで戦争について感じたことを、つらつらと書いていきます。
幻影を追い求めているあの人たちは、最後にはかならずわれわれを戦争へとみちびくことになる。
幻影を追い求めているあの人たちは、
最後にはかならずわれわれを戦争へとみちびくことになる。
なぜなら、恐怖をいやしてくれるものは、
この世には現実の危険以外にないからである。
これは結構考えさせられたなと思った言葉です。ウクライナとロシアの戦争は未だに続いていますが、なぜ人は戦争をするのか?という命題は、未だに人間の心の中で解答が出ていないのだなということを改めて感じます。
台湾有事も囁かれているますし我々日本人も他人事ではないですよね。
ロシアはウクライナがNATOに近づくことを恐れて戦争をしたという話があります。まあ、それだけの理由ではないと思いますが、少なくともロシアとしてはNATOに加盟している国が近くにあるのは、承服しかねるということでしょう。
言ってしまえば恐怖というわけです。だから、それをいやすために現実の危険、つまり戦争をはじめたという理屈になります。
そしてこれは中国も同様です。彼らは恐怖を感じていて、その恐怖を取り除いてあげないと、たぶん戦争は起きてしまうでしょう。
恐怖は飴では克服できません。ではどうするのか?と言えば、個人的に恐怖は理解することでしか解消できないと思っています。
日本でいえば、妖怪かな。妖怪とは昔の人が自然現象を名前を付けて実体化させたものです。その原理さえ理解してしまえば、妖怪に対する恐怖というのは拭えます。
同様に、今中国が感じている恐怖を理解という形で拭えないと、このままずっと中国が戦争する危険性は無くならないだろうなあと。
で、中国が感じている恐怖って何?と言われると、難しいんですけどね。個人的には中華思想だと思っていますが、実際にはもっと話を聞かないとわからんなあと。
正直、一番は中国のトップの人たちがカウンセリングを受けることで、戦争は回避できると思っていますが、プライドの高い上の人達がカウンセリングを受けるなんてことはしないと思うので、今後も戦争の危機は続きそうだなと個人的には思っています。
戦争にはおそらく、何か賭け事に似たものがある。
戦争にはおそらく、何か賭け事に似たものがある。
戦争が生まれるのは退屈だからだ。
戦争をもっとも好む人間はいつも、
仕事や心配事のもっとも少ない人たちであることが、
そのことをあかししている。
本書ではたびたび退屈という言葉ができてきます。そして、戦争が生まれるのも退屈からだとしています。
前述の恐怖とはまた違った観点ですね。
もしかすると退屈という恐怖が、為政者を戦争へ駆り立てるのかもしれません。
退屈というと、することが無いというイメージがありますが、たぶん、退屈というのは閉塞感という感じなのではないかなと個人的には感じました。そして、その閉塞感が恐怖を生み出しているのかもしれません。
そういう意味で前述のロシアは国としての閉塞感に恐怖を感じて戦争をしたのかもしれないなとは思いました。
もしそうであるならば、感じている恐怖が閉塞感であることを理解し、その閉塞感をどうやって打破するのか?について、戦争以外の方法を考えるのがベストのような気もしますし、他の国もどうやったらロシアや中国とうまく折り合いがつけられるのかを模索するのが良いのかもしれません。
理想的にはお互いの歩み寄りですが、やはりそこで中華思想がかなり邪魔をしてくるようにも思います。
退屈については、
社会の秩序が乱されるのは、
いつも退屈さからだ。
また退屈さからくるばかげた行為からである。
なんて言葉もありました。ここでも退屈というよりは閉塞感と言ったほうが今の時代に合うように感じます。