善悪の定義と考察〜善とは何か? 悪とは何か?

投稿者: | 2024年12月25日

この定義は、2024年時点での個人的な考えに基づいています。

善悪の基本定義

まず始めに結論から書くと、

  • 善とは社会の利益を追求する行動
  • 悪とは個人の利益を追求し、結果として他者や社会に不利益をもたらす行動

です。

以前、善悪の定義を書きましたが、それをベースに少し改良を加えたものです。

以降では、この結論に至った自分の考えについて順を追って書いていきます。

善悪の起源と背景

自然状態では善悪は存在しない

はじめに自然状態について考えてみます。野生の世界と言っても良いかもしれません。

自然状態では、善悪は存在するでしょうか?

例えば、クマが川を登ってくるサケを捕食する行為。

答えは明白ですね。善悪なんて存在しません。

自然界における様々な事象においては、そもそも善悪など無いのです。

では、我々人間はいつ善悪を生み出したのでしょうか?

社会の形成によって善悪が誕生した

個人的な考えでは、社会の形成だと考えています。

つまり、人間が共同体を作り、社会を形成していく中で、善悪の概念が誕生したということです。

社会を上手く回すために、社会の安全性を守るために、ルールが生まれ、それを善としたということです。

ルソーは社会契約という概念を提唱していますが、個人的にはもっと前というか、もっと小さな集団でも起きていると思っています。

縄張りが所有権を生み、そしてルールを生んだ

具体的に言えば2人の場合においても、一緒に生活していく際にもルールが必要になるということです。

所有という概念が無かったとしても、縄張りという概念は存在していたとはずなので(サルから進化したのであれば)、お互いの縄張りを守るというルールがあったでしょう。

というか、そもそもサルの集団においても、ルール的なものは存在しています。

で、ルールを破れば、集団から外されてしまったり、集団から攻撃されるわけです。

これこそが、善悪の根源にあると自分は考えています。

ただ、サルの社会では善悪という概念はありません。それは自然界を生き抜くための機能的なものという感じ。

安心した社会の運営

その時代に生きていたわけでは無いので、あくまで推測でしかありませんが、集団が大きくなるにつれて、そのルールが徐々に整備されていったのだと思います。

そして、その基盤になったのが縄張りであり、それが所有権という概念になり、ルールが発展していったのかなと。

ベースになっているのが縄張り、所有権であるので、言ってしまえば社会として個人の利益を守ることがルールの基本です。

個人の利益を守るということは、他者から奪わないことと言い替えても良いかもしれません。

つまり、社会に属している人間を守ることであり、結果としてそれは安心した社会の運営とも言えます。

安心した社会の運営は、結果として社会全体の利益になると言えるでしょう。

これこそが「善」の根源なのではないかと個人的には考えています。

悪は社会の利益を損なう行為だが

なので、「悪」は社会の利益を損なう行為となります。

では、社会の利益を損なう行為とはどのような行為でしょうか?

前述したように、社会は個人の利益を守ること、他者から奪わないことをルールの規範としています。

なので、個人の利益を損なうこと、他者から奪うことが「悪」というわけです。

じゃあ、社会の利益を損なう行為がすべて悪かというと、実はそうではないと個人的に考えています。

詳しくは次項以降で書きますが、2人でもルールが生み出されるため、それを小さな集団の社会と考えると、集団と集団の縄張り争いになるのです。

それはお互いの社会が利益を追求する状態になるため、お互いが「善」とも言えてしまいます。

しかし、個人の場合は別です。

よって、最初の定義「悪とは個人の利益を追求し、結果として他者や社会に不利益をもたらす行動」になるのかなと。

ちなみに1人でもルールは作れますが、ルールを破っても罰則がありません。なので、1人の場合にはルールはあっても無くても一緒と言えます。

また、ルールの根源は縄張りと自分は考えているので、1人しかいない場合には全世界が自分の縄張りだからです。

善悪の相対性と多様性

改めて、

  • 善とは社会の利益を追求する行動
  • 悪とは個人の利益を追求し、結果として他者や社会に不利益をもたらす行動

と定義すると、善悪が相対的なものであることがわかります。

また、社会を最小2人から構成できるとするならば、善が無数に存在すると言えるでしょう。

具体的に言えば、家族社会、地域社会、国家社会という感じで、それぞれ「善」が変わってくるという話。

家族社会の利益を追求するために、地域社会の利益とぶつかることってありますよね。

ローカルルールとかもその1つでしょう。

ですので、絶対的な善は存在せず、状況によって変化するのです。これが善悪の難しさかなと思います。

社会の利益を追求したら不利益になってしまう場合もある

善悪が相対的とは少し違いますが、善悪を決めることが難しい理由として、社会のためになると思って行動したのに、結果社会の不利益になる場合もある点が挙げられます。

地域社会活性化のために、大きなイベント、例えば万博とかを開催しようとしたけれど、結果として中止になってしまった場合、社会の利益としてはマイナスになっていると言えるでしょう。

さらに大きなマイナスを減らすための措置という考え方もできますし、そもそも完璧な未来予測は人間にはできないので、結果として不利益になってしまったということがあるかなと思います。

それを「悪」としてしまうと、善悪は結果論という考え方になるかなと。

ただ、個人的には善悪結果論については否定的です。

結果論で善悪を決める難しさ

端的に言えば、「勝てば官軍、負ければ賊軍」を是とするか?という話。

力(軍事力)による支配を容認する社会においては善と言えますが、力(軍事力)のない社会においては容認できないでしょう。

逆に言えば、社会に参加する人たちが同意するのであれば善悪結果論もまた正しいと言えます。

最大多数の最大幸福が善にならない理由

また、最大多数の最大幸福が善にならない理由も、この定義では説明が容易です。

人は複数の社会に所属しているため、その社会ごとに「善」が存在します。

その社会ごとに利益が異なるわけです。

簡単に言えば、国家の利益と家族の利益が一致しない場合があるという話。

国家の最大多数と、家族の最大多数の利益が異なる場合があるということです。

法律は善悪の基本

さて、

  • 善とは社会の利益を追求する行動
  • 悪とは個人の利益を追求し、結果として他者や社会に不利益をもたらす行動

を、法律に照らし合わせてみたらどうでしょうか?

結構合致すると思いませんか?

法律というのは、基本的にはやってはいけないルールです。

やってはいけないルールとは、まさに社会に不利益を与える行為と言えるでしょう。

泥棒にしたって詐欺にしたって、誰かに不利益を与える行為です。

そしてそれは社会全体にとっての不利益になります。

さらに、法律で裁かれるのは、集団では無く個人ですよね。

だから、悪はやはり個人が関係していると私は考えています。

法人を裁くのは難しい

法人に対して罰金などを貸したりすることも可能です。

なので、個人じゃない場合もあるのではないか?という意見もあると思います。

しかし、法人を裁くのは、非常に難しいです。

例えば、法人が詐欺行為でお金を稼いだとしましょう。

罪を法人が被って、個人に責任が無いとした場合、やりたい放題できちゃいませんか?

結局、罪を追う人間が必要というか、そもそも法人自体が法律を違反したわけではなくて、個人が法律を違反しているんですよね。

だから、法人という社会を「悪」とすることはできないのかなと思っています。

道徳・倫理の役割

道徳や倫理は、多くの場合、社会の利益を追求する行動を促すための指針になっていることが多いです。

それを無視するという行為は、社会に不利益を与えることになり、結果法律違反となるケースがほとんどかなと。

ぶっちゃけて言えば、法律を学べば、道徳や倫理は不要だとも思います。

しかし、六法全書をすべて覚えることができる人は、どのぐらいいるでしょうか?

なので、道徳や倫理というのは、法律を抽象化して、理解しやすいようにしたものであると個人的に考えています。

法律で規定されていないものもある

そうは言っても、法律では規定されていない事柄も、道徳や倫理にはあります。

それらの道徳や倫理について、一度、考えてみてください。

ほぼ社会の利益を守るためのもの、結果として社会の不利益を防ぐものであるはずです。

道徳や倫理も変化する

また、道徳や倫理も状況によって変化していきます。

結局、法律を抽象化したもの、社会の利益を守ることが目的なので、法律が変化したり、社会の利益が変化すれば、変わるのは当然です。

戦争は善と善のぶつかり合いだが

最後のまとめに入る前に、戦争についても少し書いておこうかなと思います。

極論を言うと、戦争は国家間の縄張り争いであり、国家同士の利益追求行動が生み出すものです。

つまり、どちらの国家も「善」の行動をしているということ。

なので、戦争自体に善悪は無いということもできます。

戦争は国の重大事項で滅亡にも関わる

少し話は変わりますが、世界で最も読まれていると思われる孫子の兵法書は、

孫子曰、兵者国之大事、死生之地、存亡之道。不可不察也。
孫子曰く、兵は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからざるなり。
私的意訳:孫子曰く、兵は国の大事であり、生き死にが大きく関わり、国の存亡に関わるため、よくよく考えて行うべし。

ではじまります。

兵というのは戦争のこと。

つまり、端的に言えば、戦争は国の重大事項で国家存亡にも関わるから、ちゃんと考えてから行いなさいという意味です。

孫子は戦争をすることは下策としていて、そもそも「戦わずに勝つことを最上」としています。

なぜならば、戦争をすると多くのリソースを消費するからです。リソースというのは、兵士もあれば兵糧もありますし、お金のことでもあります。

それらを大量に消費するため、結果として国家が弱体化してしまうこともあるという話。

戦勝国が敗戦国から賠償金を取ったり、昔だと奴隷として労働力にしたりするのは、失ったリソースを補うためと言えるでしょう。

つまり、何が言いたいかと言うと、戦争をすると国家の利益が減る可能性が高いため、その観点で考えると「善」とは言えないという話。

また、戦争を「悪」と定義できるのは、独裁者の国家による利益追求かなと。

それだと、悪の定義を拡張することで、「悪」に含めることができるかもしれません。

このあたりは今後、もう少し考えてみたいなと思っています。

まとめ

ということで、最初に書いた結論の通り、

  • 善とは社会の利益を追求する行動
  • 悪とは個人の利益を追求し、結果として他者や社会に不利益をもたらす行動

というのが個人的な現状の善悪の定義です。

社会ごとに利益が異なるため、絶対的な善悪は存在せず、善悪は常に変化するものと言えます。

社会貢献は善

社会の利益を追求する行動というと、少しわかりにくい感じがありますが、一番わかり易い言葉は「社会貢献」かなと。

逆に悪は、個人の利益追求なので、エゴと言えるかもしれません。

エゴ自体がそのまま悪ではなくて、エゴの結果、社会に不利益を与える行為が悪という話です。

という感じで、善悪についていろいろと書いてきました。

皆さんはどう考えますか?


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA