昨日、人生ではじめて哲学対話をする会に参加してきました。
テーマは恋愛や性について。
哲学対話とは
哲学対話とは、ざっくり言えば、テーマについてそれぞれが考えていること、その場で考えたことなどを発言し、テーマへの理解や考えを深めていく会。
特徴として、
- 好きな発言をしていい
- 他の人の意見を否定しない
- 聞いているだけでもOK
- 発言の最後は必ず問いにする
- 発言内容はまとまってなくてOK
- 意見が変わってもOK
などがあります(正確なものは下部リンク参照)。
個人的に近いなと思ったのはブレインストーミングですね。
また、ファシリテーターがいますが、その役割は話を回すことではなくて、議論になりそうな時に止めるなどの役割。
哲学対話については、他にも似たようなものがあって、それぞれ違いがあるようです。
個人的に感じたこととしては、
- アウトプットすることで頭が整理される
- 最後を問いで終わるのは意外と難しい
- 答えが無いモヤモヤ感
かなと。
アウトプットすることで頭が整理される
一番哲学対話で良いなと思った点は、アウトプットすることによって頭が整理される点。
人の意見を聞いてこんがらがってしまう場合もありますが、少なくとも自分が発言することで、
- 自分が何を考えているのか?
- 自分の中で何が納得いっていないのか?
- 何に詰まっているのか?
- そもそも何がわかってないのか?
などが整理できると感じました。
昔からアウトプットの重要性は言われていますが、いざ話すとなると、言葉が出てこないことが多いかなと。
それはアウトプットの練習をしていないことに起因しているのではないかなと思います。
また、アウトプットする場の多くは、正しさを求められることが多く、結果尻込みしてしまいがち。
しかし、哲学対話では相手の意見を否定してはいけないため、みんなが話を聞いてくれます。
話にまとまりがある必要もないというルールもあるため、話しやすい環境でもあるかなと。
所謂、心理的安全性だったかな、それが確保されているので、誰でもアウトプットしやすいと感じました。
そしてアウトプットすることで、また考えが更新されていくという感じ。それが頭が整理されるという意味です。
最後を問いで終わるのは意外と難しい
これは自分の悪いクセでもあると思いますが、ついつい答えを考えがちになっていました。
つまり、Aという発言があった時に、それはxxが理由と頭に浮かんでしまうわけです。
なので、自分が発言する時に、自分の考えを述べるのですが、結果として他の人の意見の解決策を話してしまって、問いで終わっていないと感じました。
一応、〜と考えましたが、皆さんはどうですか?
という魔法のワードがあるのですが、おそらく、本来は自分自身の考えを述べる場で、解決策的なものは不要なんだろうなと。
もちろん、解決策的な話をしてはいけないというわけではありません。
しかし、解決策というのは、発言に対する否定になる場合があると個人的に考えています。
このあたりは、再度参加する機会があれば、自分自身の思考を調整する必要があると感じました。
答えが無いモヤモヤ感
前述の解決策の話にも近いのですが、哲学対話は答えを出す場ではありません。
はじめての参加ということもあったと思いますが、そのあたりが結構モヤモヤしたというか。
モヤモヤしても良いのが哲学対話だと言われればそれまでなのですが、理解を深めたいと考えていると、そこにズレがあるという印象を受けました。
どちらかというと、様々な人の話を聴く場と考えたほうが良いのかなと。
理解の深まり自体は、自分自身でやらないと駄目なのかもなあというのが個人的な感覚です。
ただ、前述したようにアウトプットすることに意味があり、それを受け入れてくれる環境こそが哲学対話の本質だと思います。
自分のようについつい解決策や答えを欲しがってしまうというか、そこを目指してしまうのが、そもそも向き合い方として違うように思いました。
全体的な雑感
哲学対話では、自分と他の人とは考え方が違うということを確認する場でもあるというのが個人的な所感です。
そういう視点で見ると、多様性を感じることができる場だとも思います。
また、少しプライバシーというか、プライベートというか、友人にもあまり話をしないようなことを話すことができるので、その点も大きいかなと。
話すことで、肩の荷が下りるではないですが、抱えていたものを吐き出すことができ、一時的に心が楽になると思います。
まあ、自分の場合は、結構普通に話してしまうことが多いので、哲学対話だから話せたということ感じではないのですが・・・。
このあたりも、人によって考え方が違うんだろうなと。
逆に言えば、モヤモヤと何かを抱えているなら、抱えているテーマの哲学対話に参加してみると良い気もします。
ただ、カウンセリングという手もあるのかなと。
参考 → カウンセリングを馬鹿にしていた時期が私にもありました | ネルログ
そんなわけでまた機会があれば参加しようかなと思っています。
余談:哲学対話の課題的な
これは今回参加して個人的に感じたことなのですが、答えを出さないことが、悪い方向に行く場合もあるのかなと。
例えば、泥棒というテーマで話した際に、泥棒はOKと考えている人がいたとして、その発言に対して、否定をすることができないため、結果として本人は泥棒はOKであることを受け入れられたと認識してしまう可能性があるということです。
そういう場合の対処法って難しいなと。少し極端な例ではありますけど。
これはテーマの立て方が悪いのかもしれません。
ただ、常識を疑うというのも哲学対話で話して良いことではあるので、明確にそれを防ぐ方法が無いのかなと。
哲学対話の後の飲み会で話がでたのは、子どもたちで哲学対話を行う場合です。
その時に、
子どもたちの発言を制限して良いのか?
発言の方向性を導いて良いのか?
ということ。
なので、前述したようにテーマ立てが重要なのかもしれません。
また、全然違う課題というか、参加者が固定してしまうと、結局それは友達と話しているのとあまり変わらなくなってしまうのかなという懸念もあります。
そもそも友人や家族などと話しにくいことを言える場でもあるのに、参加者同士で繋がりというか、親密度が上がってしまうと、結果として話しにくい場になってしまうということです。
あと、この哲学対話を意図的に悪いように使うこともできそうだなと。あまり詳しくは書きませんが、場によっては話があらぬ方向に向かってしまうこともありそうです。
余談2:企業研修で哲学対話は使えるか?
これも飲み会で出た話なのですが、哲学対話を企業研修で使えるか?という話がありました。
同じ企業内でやってしまうと、前述したように友人や家族などと話しにくいのと同様、難しいだろうなと思います。
なので、各企業から1人ずつ参加してもらって、会を開くというのが現実的かなと。
ただ、企業は営利が目的なので、哲学対話によって、何か企業利益が上がるエビデンスみたいなものがないと、導入は難しいのかなとも思いました。
一方で、この手の話って、ベンチャー系の企業だと受け入れやすい環境にあるようにも思います。
基本的にベンチャー企業というのは、破壊的イノベーションが求められます。
つまり、現在の市場や固定観念に縛られてはいけないのです。
それはまさに哲学対話と相性が良い部分ではないかと感じました。
ただ、ベンチャー企業ってお金があるわけじゃないので、ベンチャー企業から研修費用を貰うというのは、あまり現実的ではないのかなと。
哲学対話の会を開くことで、参加者はたくさんいそうですが、ビジネスにするには、もう一味必要な気がしました。
リンク
- 「哲学対話」先生と生徒が共に考えるアクティブラーニングな授業 – 教育図書教育図書
- 二村ヒトシ × だいまりこ「あなたの恋愛や結婚やセックスの〈なぜ?〉を考える 性の哲学対話ワークショップ 」vol.5 | Peatix