
金は動かない、感情は動く、だから、金は信じることができる。
おそらくだけれど、お金に対する信用って、そういうことなのかなと思ったりした。
人間は確かに信用できない。
自分は自分自身を完全に信用することがない。
というのも、自分も自分自身に嘘を吐くからだ。
本当は、xxしたいけれど、我慢しなければならず、その言い訳を用意して納得する的な。
自分は若い時、本当は女性にモテたかったけど、それを言うこと、そういう行動をすることが、正しくないと思っていた。
モテること自体に意味はないとか、モテても意味がないとか、なんか、哲学まではいかないまでも、モテている人を悪く言う、または、悪く考えることで自分を納得させていたのだ。
しかし、それこそ意味のない行動だった。
何が言いたいかというと、そうやって人間は、自分の感情にすら、蓋をすることができるし、偽ることができるということ。
ましてや、他人をやである。
じゃあ、他人を信じていないのかと言われると、うーん、個人的には一般的な意味での信じるという意味では、信じていないんだろうなと思っている。
あくまで、自分の場合。
で、自分が行き着いた今の結論は、
「握った手を離さないこと、それが信じるということ」
なんじゃないかなって。
あくまで、自分の話。
相手の話を100%信じるということではなくて、何が起きても手を離さないこと、それを自分で選択することが信じるなんじゃないかって。
人は完璧じゃあない。
だから、魔が差すこともあるし、嘘を吐くこともある。
その時に、手を離さないことを自分で選ぶことが信じるなんじゃないかなって。
相手の嘘を鵜呑みにすることが、信じるではなくて、相手との関係性を保ち続けることが大切なんじゃないのかなと。
それには、たぶん、対話できることが必須な気もしている。
対話ができない状態、どちらがかマウントをとっている状態だと、その関係性の中に、信じるということは難しいのではないか。
上下関係があっても、お互いに対等な立場であるならば、きっと信じることはできると思う。
と、対等な関係ってそもそも何だろうな?と思ったりした。それはまた別途考える。
結局、何が言いたいのかというと、人の心は変化するもので、自分の心は制御できるけど、他者の心は制御できないのだから、他者の言動や行動をすべて受け入れるのは難しいけれど、関係性を保つことはできるのではないか?という話。
で、その関係性を保つには、対等な関係である必要があって、そして、その関係性を保つのは、自分の意思で選択であって、それこそが信じるではないか?という話。
それが信じるであれば、「金は動かない、感情は動く、だから、金は信じることができるってのはわかるけど、人を信じることもできる」んじゃないかなってこと。
その人との繋がりを大切にしたいのであれば、それこそが、その人を信じるってことなんじゃないかってこと。
つまり、信じるとは、その人との関係性を維持することの選択ではないだろうか。