
思ったことをつらつらと。
個人的に最近、精神が比較的安定している感があります。
その理由として、現実の自分を少し受け入れられたというのがあるかもしれません。
昔の自分は、現実の自分の存在を受け止めきれなかったという話。
理想が高くて、現実とのギャップがあって、それを認めたくなったという感じ。
シャアは言いました。
「認めたくないものだな、自分自身の、若さ故の過ちというものを」
と。
個人的には、歳を取ったら過ちを受け入れやすくなったのですが、若い時って受け入れられないんですよね。
その根底には、エベレストよりも高いプライドがありました。
そのプライドという壁によって、自分を守っていたという感じ。
自分は特別な存在だ。
だから、俗世間の人間とは違うと本気で思っていて、まあ、今思えばアホだったなあと。
ぶっちゃけ特別な存在の人間なんていないんですよね。
自分が特別になりたいだけで。
特別になることで、自分自身のアイデンティティを確立しようとしていると言っても良いかもしれません。
で、そう考えるのが悪いわけではなくて、それが自分だということを、まず受け入れる必要があったなあって。
現実の自分から目をそらすのではなく、まず現実の自分を見ることが大切かなって。
そこが一丁目一番地なんですよね。
そもそも自分のそういった状態を受け入れられないと、自分を客観視できない。
客観視できていると思っても、実際には主観によるもので、本来は他者からの評価が必要なわけです。
でも、特別だと思っている自分は、自分で自分を客観視できていると勘違いしてましたね。
他者なんて不要だと思ってましたから。
本当にアホだなあって、自分。
で、現実の自分を見る、受け入れる際に大切なことがあります。
それは、フラットに受け入れるということ。
これがとても難しい。
自分の場合には、かなりネガティブに自分のことを考えていました。
自分の容姿とか、感情とか、欲望とか、そういうのをすごくマイナスに捉えていて、だから世界はクソだという結論にしか至らなかったというか。
なぜかというと、世界の中心は自分であって、自分がクソであるならば、世界もクソだからです。
そして、社会を見る。
ネガティブなニュースを見る。
ああ、やっぱりクソだという答え合わせのために。
でも、フラットに自分を捉えることができると、見方が全然変わってきます。
自分が凡人だということを受け入れ、その他大勢と、それほど変わらない、違いがあったとしてもわずかしかないということがわかるというか。
フラットに自分を捉えられていない時点で、もうね、客観視できてないんですよね。
そこに気づくのに、とても時間がかかりました。
そりゃあ、ブッダも6年修行するわ。
まあ、自分はブッダじゃないので、もっとかかるでしょうし、解脱もできないですが。
たかだか凡人が何十年生きたぐらいじゃ、ブッダの領域には到達できないって話。
なのに、若い時の自分は、もはやブッダの領域に到達したんじゃないかぐらいに思ってましたね。
愚かすぎる(笑)
で、自分を受け入れることができると、次に他者も受け入れやすくなるんですよね。
比較的ね。あくまで、比較的。
やっぱりね、悪意を持って攻撃されたり、嘘を付き続けられたり、突然理由もなく縁を切られたりすると、凹みます。
でも、そういう自分も今はちゃんと受け止められるというか。
だって、俺、凡人だから。
そういう感情が起きるのは当たり前。普通。どノーマル。
ずっとね、マイノリティだと思っていたけれど、それは自分が勝手にそう思っていただけで、マイノリティでもないんですよね。本当は。
マイノリティってカテゴライズされる、いや、自分でマイノリティだと勝手にカテゴライズしてただけ。
大きな視点で見ると、全然マイノリティじゃない。
そりゃあ、一部だけ取り出したら、マイノリティな部分があるのは確か。
でも、それって普通。
別に変なことじゃない。
当たり前すぎて、むしろ、安心する。
すべてにおいてトータルにバランスの良い人間なんて、そもそもいるのだろうか?
結局、一部のマイノリティな部分だけ取り出して、自分を特別な存在だと思いたいだけだったんですよね、自分は。
そうしないと、アイデンティティが崩壊すると思っていた。
特別な存在であることが理想で、実際には凡人で、で、それに気づいて受け入れたところで、特にアイデンティティは崩壊しなかった。
杞憂。
まさに、杞憂。
むしろ、現実の自分を受け入れたことで、そのことに気づけたというのもあります。
だから、まずはフラットに自分を受け入れることが大切だなって今は思っています。
ポジティブでもネガティブでもなく、フラット思考みたいな感じ。
自分が特別だと思っているうちは、フラットに自分を捉えられていないかなって。