教育とは〜哲学対話メモ

投稿者: | 2025年10月5日

以前に参加した、哲学対話のメモ。

知識の詰め込み部分を切り出すという考え方

個人的に公的な学校教育については、知識の詰め込み部分を切り出して、それ以外の部分を学ぶ場にするのが良いと考えている。

知識の詰め込み部分については、正直、教室で皆で一緒に学ぶというスタイルが、非効率だと考えているため。

それぞれの能力も違えば、学習の進捗状況も違う。

それを一緒くたにまとめて同じことを教えるというのは、教える側にとっては効率が良いが、教えられる側にとっては非効率だ。

近年では、塾に通ったり、家で学習するシステムがかなり整っている。

知識という点で言えば、学校で教わることよりも多くの情報を、手軽に得やすい時代になってきた。

だからこそ、知識の詰め込みを外に出し、学校ではそれ以外の学びを得る場にしたほうが良いのではないかと思う。

知識の詰め込みに関する進捗については、ITシステムなどを使い、個別にテストを行えば良い。

そのテストに合格すれば、知識面ので卒業資格を得るという感じ。

知識を得たいものは、どんどん先に進めるというシステムだ。

何を公的な学校で学ばせるのか?

では、公的な学校では、何を教えるのか?

個人的には、

  • 道徳や倫理などについて考えたり、対話したり
  • チーム作業をしたり
  • 美術館巡りや社会科見学などを計画して、考えたり、対話したり
  • お金についての知識や経済の体験
  • コミュニケーションについての知識と実践
  • プレゼンの知識と実践
  • 法律の知識

などかなと思っている。

どれも社会人になってから、役立つかなと個人的に考えていること。

個人でできるのは、法律の知識ぐらいで、あとは知識だけでなく対話を通して考えを深めたり、実際にやってみることが大切かなと。

というか、生きていく上で、もっとも重要なのは人間関係で、それにまつわることを学ぶのが重要ではないだろうか。

お金や法律は対人関係でトラブルになりやすいことを学ぶ感じになる。

より社会に即した話と言い換えても良いかもしれない。

知識格差を受け入れる

個人的に、勉強における成績の差、つまり知識差というものは、受け入れるべきかなと思っている。

運動能力についてもそうで、どうやっても差はできるのだ。

だから、その差があること、違いがあることを、学んでもらうのが、公的な学校教育で必要なことではないだろうか。

順位を決めることが重要ではないというのであれば、そもそもテストは不要。

というか、そもそも順位があるのに、その情報を隠すこと自体、教育として正しいのかは、個人的に疑問がある。

つまり、見せたくないものは隠せばOKみたいな風潮だ。

これは、むしろ社会人にとっては、致命的になりうる。

隠されている間は問題がないが、それが明るみに出たときに、取り返しのつかない、リカバリの効かないダメージを本人だけでなく、会社としても被害を被るからだ。

また、能力の無い者に対して、情報を公開する必要はないという考え方にも通じる。

ここで言う能力のない者というのは、大人に対する子どものこと。

そして社会においては、職責が高い者と、低い者ということになる。

政治などもそういう印象があるかもしれない。

個人的には、情報はオープンにすべきだと思っている派なので、ここは意見が分かれるところだろう。

ただ、自分が大切だと思っているのは、差があることを認識した上で、対等な関係を築くことだと思っている。

人間、すべての能力がパーフェクトという人はいない。

そして、一人ひとり、経験していることが違うし、考えていることも違う。

そこに優劣はない。

その人だけの、ユニークな価値だと、自分は思っている。

その点において、人は対等だと考えているため、情報に差があるというのは、当たり前のことだし、それによって優劣は決まらない。

ただ、世の中の人々は、そうは考えていないので、どうしても考え方に差がでてしまうなと。

大人になってもテストがある社会

哲学対話中に、ふと思った。

なぜ、大人はテストがないのだろうと。

もちろん、テストに近いものはある。

会社の評価だ。

しかし、それは会社内の評価でしかなく、それだけで、その人の価値が決まるわけでもない。

また、最近、自分は放送大学に通っているのだが、これがなかなかに面白い。

学びというのは、やはり楽しいなと思う。

強制的な勉強ではないというもの、きっと楽しさやモチベーションの要因だろうなと。

と、話が逸れた。

言ってしまえば、大人になってから、学ばなくなることが増える。

それは仕事や家庭などに時間を取られてしまうからだ。

それ自体は、問題だとは思っていない。

個人的に、懸念しているのは、考えの、知識のアップデートがされないことではないかなと。

テクノロジーにしても、社会的な常識と言われるものにしても、時とともにどんどん変化していく。

例えば、生成AI。若い人にとっては、普通になっていくだろうが、歳を取っている人たちは、生成AIについて、ネガティブな印象を持っている人も多いように見受けられる。

常識的な話で言えば、タバコが一番わかりやすいだろう。

昔は、職場において自分の席でタバコを吸えるのが普通であった。

しかし、今の時代は、喫煙室が別にあったり、禁煙だったりする。

それが普通になってきていて、それ自体が善いとか悪いとかではなく、変化しているというのが重要な点だ。

そのような変化をアップデートするタイミングが、大人にはないということ。

昔は、それを新聞やテレビが担っていたのかもしれない。

しかし、今や新聞もテレビも失墜し、インターネットの情報が若い人の間では主流になってきている。

インターネットの情報が正しいというような風潮もあって、それはそれでちょっと異論があるのだが、一旦端に置いておく。

言いたいことは、変化のアップデートをするタイミングや、変化を知る媒体に触れる機会が減っているということだ。

だから、それを補完するものとして、大人向けのテストを導入するのはどうか?というのが個人的な考え。

まあ、めんどくさいから、多くの人から反対があろう。

自分も反対したい(笑)

ただ、それとは別に、考えのアップデートをする機会があるのは、社会として良いことではないかとも思える。

国民としての、共通認識的なものを作ると言っても良いかもしれない。

それを思想統制と考える人もいよう。

ただ、一人で悶々と考えて、暴走されるよりは、マシではないかなと思ったりもしている。

どうだろうか?

公的教育の難しさ

結果にタイムラグがあるのが、一番の難しさだと思った。

今の教育が正しかった、正確には効果があったとわかるには、何十年とかかる。

そして、その頃には、その教育は古くなっている可能性が高い。

これが教育の難しさな気がした。

これは、道徳や倫理なども近いものがあるかもしれない。

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