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個人的に思ったことをつらつらと。
目次
匿名で言える環境だとして満足できるか?
「自由に意見が言える心理的安全性が確保された場所の必要性」が求められているのではないかなと、個人的に思っています。
端的に言えば、本音が言える場所というか。
いやいや、SNSやブログ、Youtubeとかでも言いたいことが言えるじゃないかという意見もあるかなと。
確かにその通りなのですが、インターネットって匿名のようで、匿名じゃありません。
それについても、匿名でできるという方たちがいますが、それはサーバを管理する人たち、組織が情報を公開しないだけで、そこに捜査ができるようになれば、サクッとバレます。
カフェなどで通信すればという意見もありますが、MACアドレスもありますし、近年では監視カメラも増えていますし、スマホの位置情報などもあります。
完全に匿名でというのは、難しかったりするんですよね。
と話がちょっとズレました。
インターネットが完全匿名でできたとしましょう。
で、そこで言いたいことを言えたとして、精神的に満足できるのか?という話がメインです。
これはあくまで個人的な感覚ですが、どれだけ情報を発信したとしても、精神的に満足はできないんじゃないかなと。
ストレスの発散の場にはなると思いますが、それ以上でもそれ以下でもないのかなと。
また、反論があったり、叩かれたりして炎上したら、逆にストレスが溜まってしまいますよね。
自分はブログを書いたり、Xで投稿してますが、精神的な満足が得られたことは、それほど多くはありません。
じゃあ、何で書いているかと言えば、ブログについては考えの整理のためがメインです。Xについては、人との繋がり維持みたいな感じ。
単純に書くだけだと、メモと変わらないというか、メモはメモで大量にあるんですけど、インターネットに公開する、つまり出力すると、もう少し深く考えるのがメリットかなと。
新たな考え方や視点が見つかったり、逆に自分でこれは違うなと思ったりすることが多々あるので、それが楽しいという感じです。
無知のヴェールは精神的な満足を得られるか?
自由な意見を言える場の究極系としては、政治哲学者のジョン・ロールズが考えた「無知のヴェール」があるかなと。
様々な情報を排除というか、お互いに知らない状態で議論することで、公正が議論できるという考え方で、基本的には思考実験です。
もし、無知のヴェールが実現できたとして、そこで議論ができたとして、私たちは精神的な満足を得ることができるでしょうか?
無知のヴェールを出したのは、心理的安全性という点で、無知のヴェールがもっとも心理的安全性を確保できる場だと考えたからです。
しかし、心理的安全性という点では、問題ないですが、おそらく精神的な満足を得られることはないのかなと。
精神的な満足にこだわる理由
さて、ここまで精神的な満足にこだわって書いてきました。
別に精神的な満足を得られなくても良いという方もいるでしょう。
確かに、自由な意見を言えれば良いだけであれば、精神的な満足は不要です。
ただ、個人的にですが、意見を言うというのは、その裏に、承認欲求が確実にあると思っています。
なぜなら、自由な意見は別に心の中でいつでもどこでも言えるからです。
しかし、それでは精神的な満足を得ることができず、人は情報発信をするのではないか?と個人的に考えています。
匿名というのは、ある意味、心理的安全性を保つための仕組みの1つです。
心理的安全性が無いと、言いたいことも言えないこんな世の中じゃと揶揄されてしまいますからね。
話を戻すと、心理的安全性が無いと、自由な意見を言えなくなってしまうので、心理的安全性は必須なのかなと思っています。
で、その上で、承認欲求があるというか、承認してほしいというのが、今の人たちが求めていることなのでは?と個人的に考えています。
そして、承認こそが精神的な満足に繋がるということです。
心理的安全性の確保の難しさ
しかし、心理的安全性の確保というのは、非常に難しいです。
今だとカウンセリングぐらいかなと。
それ以外の場では、どうしても何らかの力が働いてしまう気がするからです。
逆に言えば、心理的安全性を確保できる相手がいれば、それはとても貴重な相手と言えるでしょう。
最近、個人的に哲学対話というのにハマってはいますが、哲学対話においてもある程度、ポジショントークというか、同調圧力というか、影響は出てしまうかなと。
それはどうしても人間関係が発生するからです。
匿名で精神的な満足を得にくい理由
匿名の場合、人間関係を気にせず発言できるので、自由に意見を言えるでしょう。
しかし、精神的な満足を得られるかというと、それもまた難しいのかなと。
SNSでフォロワーがいっぱいいる人は、精神的な満足を得られているのでは?という意見もあると思います。
確かに自己承認欲求という点では、フォロワーの多さ、いいねの多さで満たされるのかなと。
ただ、ある程度、有名になってしまうと、不用意な発言ができなくなるというのも事実です。
いわゆる炎上ですね。
有名人だからと言って、何でも言って良いというわけではありません。
また、どれほどフォロワーが多かったとしても限界があります。
日本人全員にフォローされることは無いですし、全員が好意的というわけでもありません。
いわゆるアンチと呼ばれる人たちですね。
このアンチが増えてくると、いいねがたくさんついて自己承認欲求が満たされているにも関わらず、精神的には満足を得にくくなると個人的に思っています。
ネガティブな発言の方が影響力が大きいためです。
結局、匿名でフォロワーが増えたとしても、意外と言いたいことが言えず、炎上にビクビクすることになったり、ネガティブな発言に引っ張られてしまいます。
ネガティブな意見を完全に無視するという方法もありますが・・・実際、完全に無視できている人っていないですよね。
絶対に気になってしまいます。
つまり何が言いたかったかというと、「自由に意見が言える心理的安全性が確保された場所」って、あまり無いのかなということです。
承認されたい人にいいね!されると精神的満足感が高い
で、ここで話を終えても良いのですが、最近個人的に思っていることがあって、それは「承認欲求って数はあまり関係ないのかもしれない」ということです。
これは簡単な思考実験ですが、例えば自分の意見について、
- 匿名の誰かがいいね!をしてくれた時
- 自分の友人がいいね!をしてくれた時
- 自分の尊敬する人がいいね!をしてくれた時
で、どの時が一番精神的な満足を得られるかを考えてみるのが良いかなと。
自分の場合は、圧倒的に「自分が尊敬する人」ですね。
匿名の誰かも、友人からのいいね!も貰えれば嬉しいです。それは間違いありません。
ただ、1万の匿名いいね!よりも、尊敬する人からの1いいね!の方が、個人的には圧倒的に嬉しいかなと。
極論ですが、全世界の人よりも自分は嬉しいですね。
皆さんはどうでしょうか?
また、いいね!じゃなかったとしても、自分のブログやYoutubeなどを見てもらえただけでも、精神的な満足度は高い気がしています。
ブログで言えば、1PVだったとしても、その1PVが自分の尊敬する人だったら、もうそれで相当満足かなと。
何が言いたいかというと、承認される相手によって精神的な満足度が変わるということです。
数よりも質と言った方が良いかもしれません。
心理的安全性という点では、カウンセリングという方法がベストでありますが、実はカウンセラーの限界はこの点にあるのかなとも思っています。
数を減らせば心理的安全性の確保もしやすくなる
心理的安全性という点で考えると、関係者の数が増えれば増えるほど、心理的安全性の確保が難しくなるかなと。
人数が増えるに従って、自分の発言が外に漏れる可能性が高まると言えば、わかりやすいでしょうか。
人が増えれば、それだけコントロールが効きにくいという感じ。
また、否定的な意見を持つ人も増えそうですが、否定的な意見については、議論にしろ対話にしろ、ルールで縛ることができるので、個人的にはそこまで影響はないかなと。
ルールを守れない人であれば、そもそも話す必要は無いからです。話す意味もありません。
最少人数は2人ですね。
そういう人が多ければきっと良いのでしょうが、実際にそういう相手を見つけるのは、結構難しいのかなとも思います。
まとめ
という感じで、いろいろと書いてきたのですが、ざっくりとまとめると、
- 自由な意見が言える場には心理的安全性が必要
- 承認されることで精神的な満足を得られる
- 承認は数ではなく、尊敬できる相手など質が大切
という感じかなと。
で、ここまで書いてきて思ったのは、「尊敬できる相手からの承認」が精神的な満足を得るのにもっとも必要なことというか、むしろ尊敬できる相手からの承認こそが、人が生きていく上でもっとも必要なことではないかなという話です。
そもそも尊敬できる相手に対しては、信頼、信用をしていますので、心理的安全性が確保できていることが多いのかなと思います。
だって、個人的な話をべらべらと誰彼構わず話すような人って尊敬できますか?
自分はできません。
ふと思ったんですけど、尊敬って、信頼、信用と密接に関わっていると言うか、近いところにあるのかもしれないなと思ったりしました。
あと、承認については、意見に同意してくれることとは違うと思っていて、そこについてはまた改めて書こうかなと思います。
大切なことは、「尊敬できる相手からの承認」が精神的な満足を得るのに一番重要ということ。
だから、尊敬できる相手には、ちゃんと尊敬していることを伝え、大切にしなければいけないかなと思いました。
そして、裏を返すと、尊敬することは、相手を承認することでもあるのかなと。
つまり、お互いに尊敬できる関係性を作ることが、大切な気がしました。