
評価・レビュー
☆5/5
ダウンタウンのマネージャーを経て、吉本興業ホールディングス取締役(元社長・元会長)をしている大﨑洋氏の、居場所を作るために「すること」ではなく、「しないこと」をまとめた自伝的エッセイ。
自分の人生を振り返ってみると、若い時は、自分の居場所をずっと探していた気がします。
居場所というキーワードで、自分が思い出すのは、星里もちる先生の「りびんぐゲーム」というマンガです。
若かりし頃に読んで、居場所というキーワードに強く共感を覚えた記憶があり、その影響もあって、強く居場所にこだわっていたかなと。
本書では、居場所について
居場所を探す人というのは、年齢や立場を問わず、心の中に「さみしさ」を抱いたすべての人なのかもしれません。
そんな心があるかぎり、大人になってもおばさんやおっさんになっても、年老いてじいちゃんばあちゃんになっても、誰もが居場所を探し続けるのでしょう。
と書かれていて、さみしさから人は、居場所を探し続けるというのは、納得ができます。
それとは別に、本書を読もうと思ったきっかけは、友人のツイートから。
『わかってくれる人は「みんな」でなくていい』という章を勧めていて、実際に読んでみて、いろいろと感じるところがありました。
居場所が無いと感じている方や、さみしさを感じている方に、読んで欲しい一冊。
以下は、本書を引用しつつ、個人的なメモ。
さびしさの沼の底を覗き込んだら
「生きるとはなんだ?」とまで突き詰めて考えてしまったら、さびしさの沼の底を覗き込むことになる。覗き込んだら最後、にゅうっと出てきた手に引きずり込まれます。孤独の沼は、金魚がぽちゃぽちゃ泳いでいる庭の池とはわけが違います。
そうやって命を絶つくらい、人は弱いし、孤独です。
人というおにぎりの真ん中にある、孤独。
生きるという真ん中にある孤独は、誰にも手が負えない、言葉にさえできないつらいもんです。
この文章を読んだとき、頭に浮かんだのは、ニーチェの言葉、「長いあいだ深淵を覗きこんでいると、深淵もまた君を覗きこむのだ。」です。
さびしさの沼の底を覗き込んでいると、さびしさもまた君を覗き込むのだ的な感じ。
そして、さびしさに囚われてしまうのかもしれません。
そうなったら最後、最悪の結末しかないのかなって。
自分が鬱だったときは、さびしさの沼を覗き込む気力も無かったので、そんなことはありませんでした。
ただ、仕事が忙しかったとき、理不尽なことが多かったとき、孤独でさびしさの沼を覗き込んでいた気がします。
そういうときが一番危ないんだろうなって。
解決する方法は、1人で悩まないこと。
けれど、それってとても難しいんですよね。
そういう深い話ができる人を作ることが大切な気がしています。
成功より、笑った数が多いほうが幸せ
「仕事の競争に勝てば成功で、幸せになる、ってのは無理があるな」というのが実感です。そもそも幸せって、成功とは関係ない気がします。「成功より、笑った数が多いほうが幸せ」という人はたくさんいます。
これは自分もかなり実感していることです。
特に現代の日本においては、セーフティネットもよくできていて、失敗したからと言ってすぐ死ぬような状況にはなりにくいかなって。
まあ、増税増税で贅沢はできないものの、生きていくのに困ることはそこまで無いというか。
だからこそ、自分にとって何が大切なのかは、改めて考えた方が良いかなと思っています。
自分の場合は、やっぱり笑顔かなって。
笑顔の人を増やしたいかなって。
それは自分も含めて。
だから、笑った数が多い方が幸せという言葉に、とても共感できました。
感情は理屈ではほどけない
証拠を集めて、理論武装もして、誤解を解きたい気持ちは痛いほどわかります。
でも、いくら正直に本当のことを言っても、いくら相手が間違っていたとしても、解けない誤解もあるんです。だって感情は理屈ではほどけないから。
これは本当にそう思うなと。
事実だけを見れば、自分に否はなく、相手が悪いことは間違いないのですが、それを振りかざしたところで、一体何を得られるんだろうなと。
そして、
でも、仮に「誤解だった、申し訳ない」と土下座して相手が謝ってきたとしても、腹の底から納得しているかと言えば、残念ながらそうでもありません。
だから僕は、「みんなにわかってもらおうとしない」と、あきらめたんです。
という言葉に続きます。
そうなんだよなあって。
相手に謝罪してもらったところで、腹の虫が綺麗に収まるかと言われると、微妙というのが自分の中にあります。
自分はこれまで、いろいろな人に嫌がらせをされてきました。
会社にいたずら電話をされたときは、大人でもそういうことをする人がいるんだなあと。
で、そういう人に何を言っても、「感情は理屈ではほどけない」んだろうなとも思っています。
今もまさにそんな状態になっていて、人生で初めて仕事以外で弁護士にも相談しました。
証拠を見てもらった結果、訴訟だけでなく、警察に相談することも勧められました。
わかってくれている人がいることの大切さ
さて、どうしようかなあと思っていたのですが、本書の続きで、
ただしこれは一方的に我慢しろ、という意味ではありません。
「世界中の誰もわかってくれなくても、この人だけは、わかってくれている」
そういう人を心に抱いて、その人に恥ずかしくない自分であり続けるという意味です。
という内容があって、今、踏みとどまっています。
今回、自分が巻き込まれたトラブルについて、自分を信じてくれた、わかってくれている人が何人かいたことを思い出しました。
で、相手がわかってくれる必要は無いかとも思ったわけです。
ちゃんとわかってくれている人がいることが、とても大切というか、重要に感じました。
そして、ふと思ったわけです。
相手をコテンパンにすることはできるのですが、それって自分がなりたい姿なのかな?って。
そう考えた時に、一旦待てよと思ったわけです。
相手をコテンパンにするということは、結構、キツいことも言うと思うし、相当攻撃的になると思うし、結果、相手の人生はぶち壊れてしまうのは明白。
特に、今回、弁護士に証拠を確認してもらっているので、相当強気に相手を糾弾するでしょう。
で、そういう自分の姿って、今回、自分のことをわかってくれた人たちから、どんな風に見えるのかなって。
恥ずかしくない自分でいられるのかなって。
理想的には、軟着陸が良いなあと改めて思った次第。