
タワーのアワーで開催された哲学対話に参加した時のメモ。
テーマ「ひとりと孤独の違い」
ひとりになるというのは、自ら進んで1人になった状態。能動的。
孤独になるというのは、望まずに1人になった状態。受動的。
そんな風に思いました。
また、孤独には条件というか、孤独に感じる理由があるのかなと。
具体的には、
- 相談できない状態
- 理解されない状態
みたいな感じ。
そう感じたときに、孤独を感じるのかなと。
で、相談や理解というのは、情報や感情の共有ができない状態とも言えます。
ひとりになる場合は、そのような状態を自ら作り出しているという感じ。
今の時代、孤独な人が増えていると言われています。
それは人と人との繋がりが薄くなっているため。
それに異論を唱える人はいないかなと。
では、どうして人と人との繋がりが薄くなってしまったのか?については、さまざまな意見があるように思います。
個人的には、核家族化が一番の原因かなと。
家というのは、人と人とを物理的に分断するもので、それが精神にも影響を与えているという話。
つまり、精神的に繋がっていると思っていても、家というか、リアルな壁によって、その繋がりが絶たれてしまう、または壁を通すことで減衰しているという感覚です。
ただ、その状態が悪いのかというと、何とも言いえないかなと。
家族で暮らすというのは、プライベートなども少なくなりますし、家族でなくとも人と一緒に暮らせば、ルールが作られますし、人と人とのぶつかりも発生します。
だから、良し悪し。
ただ、そうやって人と人との繋がりが絶たれたことで、失ってしまったものも多い気もして、結局は、何を選択するか?という話なのかなと。
つまり、孤独も、自分で選択した結果とも言える気がします。
子どもの頃は別として、大人になったら、孤独な状態を脱する方法はいくらでもあるからです。
それらの方法を選択しないだけ。
昔は、村社会的なものがありましたが、今の時代は、SNSなどのサービスで、新しい繋がりを作ることが可能です。
イベントだってネットで検索すればたくさん出てきます。
だから、個人的には、孤独というのは、昔に比べるとだんだんと減ってきているのではないか?と思ったり。
で、孤独を感じることが減ってきたから、逆に孤独になったときに、それを強く感じるというか。
いわゆるネガティブバイアス的な。
まあ、実際はどうかわかりませんが。
テーマ「自由とは何か?」
自由とは何か。
これもいろいろな議論があるかなと思いますが、自分で選択できることが自由なのかなと思っています。
また、暴君のように何でもかんでもできるのが、自由とは思っていません。
自由には責任が伴うなんて言い方がありますが、個人的にはその責任は自分自身にあるように思っています。
つまり、自分で選択する限りは、自分で責任を負うということです。
今、自由を感じているか?という話で、自分は非常に自由を感じています。
好きなように生き、好きなことをして、生活しているので。
お金の心配はありますが、まあ、大きな問題が無ければ、何とかなる計算ですし、もし困ったら、それは自分の責任なので、朽ち果てるのみ。
やりたいことができるのと、自由であることは違う気がしていて、やりたいことのためにさまざまな選択ができることが自由なのかなと。
もう少し具体的に言うと、ビーチで遊んで暮らしたいと思ったとき、ビーチで遊んで暮らした状態は、自由ではないということです。
ビーチで遊んで暮らすために、さまざまな選択肢があり、それを選択できることが、自由であるということ。
もちろん、自己責任の範囲において。また、他者の権利を侵害しない範囲において。
お金があって、すぐにビーチで遊んで暮らすことができることが自由ということではなくて、目的に向かって進む選択ができることが自由であるという感じ。
お金があった方が、選択の幅が広がるというのはありますが、それはやりたいことによっても変わるのかなと。
結局、お金が必要なら、働いて稼ぐという選択になるのかもしれません。
ただ、世の中には、一人で島で生活している人もいるわけで、状態としてはビーチで遊んで暮らすに近いのかなと。
また、リアルじゃなくても、VRとかバーチャルな世界で実現したって良いのではないでしょうか。
そう考えていくと、実現できないことって、意外と少ないように思います。
だから、お金があることが制約にはならないのかなって。
逆に、不自由さとは何かなと考えたときに、やはり選択肢が無いというのがある気がします。
お金が無いから、選択肢が無いという考え方もありますが、それは前述したように目的によって変わるのではないでしょうか。
生活保護という手もあるでしょうし、ヒモだって良いわけで。
結局、自分が何を求めていて、何を目的に生きているのか?が重要というか。
そして、他者は自分ではコントロールできず、コントロールできるは自分だけなので、結局、自由は自分でしかコントロールできないようにも思います。
環境については、変えることができますよね。
ただ、変えないという選択をしているだけです。
これはあくまで普通の状態というか、一般的な話で、どうしようもない場合もあるのかなと。
例えば、冤罪で何十年と刑務所に入れられてしまった場合とか。
その場合は、自由は無かったように思います。
さまざまな選択ができたとしても、他者によって、権利を侵害されている状態だからです。
そう考えると、自由は他者からの権利侵害が無い状態で、自ら選択できることと言えるかもしれません。
ゲームの自由度の話
哲学対話の最後に、ふと思ったのですが、ゲームの自由度について考えると、自由というものが見えてくるかも知れないなと思いました。
このゲームは自由度が高い、または自由度が低いみたいな言い方をしますよね。
でも、ゲームってリアルではないわけで、必ず制約があります。
完全に何でもできるゲームは未だに存在していません。
しかし、制約がある中で、自由を感じるかどうかというのがあるわけです。
つまり、自由度が高いと感じる条件がわかれば、自由の条件が明確になるかもなあと。
これについては、また改めて考えてみたいなと思いました。