現代においては性的マイノリティーに対する考え方が徐々に変わってきているように思いますが、本音のところではまだまだ変わってはいないだろうなと個人的に感じています。
そんなわけで今回は性的マイノリティーや性自認、性的指向についてちょっと考えてみようかなと。
前提条件
個人的に性について考える時には、あなたは人を好きなのか? それとも性的魅力を好きなのか?で書いたように、「我々は男女という性である前に人間である」という前提条件を置くようにしています。
その上で、性的マイノリティーや性自認について捉えてみようかなと。
増えすぎた分類
現在性自認・性的指向に関する分類はめちゃくちゃ増えていて、もはや理解するのが難しくなりつつあります。また言っている本人たちも他の性自認との明確な違いについて、ちゃんと認識できているのかもわからない状態なんじゃないかなと。
LGBTという分け方だったらわかりやすいのですが、Xジェンダーやノンバイナリーといった概念も登場し、混沌を極めています。
詳しくは、
【「LGBT」と違う?】セクシュアルマイノリティ・セクマイとは?【定義や種類まとめ】 | LGBT就活・転職活動サイト「JobRainbow」
を読んでいただくとわかりますが、身体的性、性自認、性的指向、性表現によって様々に分類されている状況です。
カミングアウトって必要?
冒頭で述べたように現代では性的マイノリティーに対する理解が広がったこともあり性自認や性的指向についてカミングアウトしやすくはなりました。しかし、まだまだカミングアウトしにくい人もいると思います。
ただ、これは個人的になのですが、そもそもカミングアウトする必要ってあるんでしょうか?
というのも、性自認とか、性的指向って一度決めたら変えてはいけないのかという話です。
何のドラマか忘れてしまったのですが、女性と結婚して子どももいるゲイの男性の話がありました。偽装結婚とかではなく、「ママだったから結婚し、ママを愛している」という内容です。その父親はゲイでしたが愛する女性と出会ったわけです。ただ、ゲイであることは本人も口にしています。前述した分類に当てはまらない事例でもあります。
で、ふと思うわけです。そもそもカミングアウトって必要なの?と。そしてカミングアウトするのって、めんどくさくないかなと。
究極的には性自認に意味は無いのでは?
これは個人的にですが、性自認とか、性的指向とかは究極的には意味が無いのでは?と思っています。
そもそも自分が男性・女性・ジェンダーレスとか、恋愛対象が男性・女性という主張は、その人達自身を縛る足かせになる可能性があるのではないでしょうか。
そもそも論として自分が男性・女性だからとか、相手が男性・女性だからという理由で人を好きになるというのが違うのでは?ということです。
あなたは人を好きなのか? それとも性的魅力を好きなのか?でも書きましたが、自分や相手の性を基準に好きになるのではなく、人を好きになるが最初にあるのでは?という話です。
理想的な社会って好きになった人と一緒に過ごせるという社会なんじゃないかなと。そして、好きになった人がたまたま男性であったり、女性であったりしたということなのでは?ということ。
だっておかしいですよね。すごく好きな人ができたけど、相手が男性だから嫌いになるって・・・。えっ、その好きだった気持ちって何なの?って思います。また、性を主軸に置くと、そもそも性的な欲求を満たしたいだけなのでは?とも思ってしまいます。
現実問題は難しい
ただ、現実問題として、我々は遺伝子という設計図で形作られ、後天的な教育によって、世界には男女という性が存在することを否応なしに刷り込まれてしまいます。
ですので、頭ではわかっていても、実際に行動するのは難しいかなと。
けれど、個人的に思っているのは「人を好きになった気持ちは大切にした方が良いのではないか」ということです。人を好きになる、人を愛するという気持ちが生まれた時、自分の性自認や性的指向を理由に、その気持を捨ててしまうのは、違うんじゃないかなあと個人的には思っています。