否定的な意見を言わない練習の場として哲学対話はアリかも

投稿者: | 2025年1月11日

個人的に思ってることをつらつらと。

論破する意味はあるのか?

人望が集まる人の考え方の一節に、

反対意見を持つ人を論破したくなるのが自然な衝動だが、本来の目的は相手を説得して賛同を得ることだ。

という言葉があって、個人的にもそうだよなあと思っています。

論破すると、自分は気持ちが良いですが、相手は嫌な気分になることは間違いありません。

で、論破したからと言って、自分の意見が通るのかというと、それもまた違うというのが現実でもあります。

というのも、多くの場合、議論の決着は投票によって行われます。

相手を論破すれば、相手が投票してくれることはほぼ無いでしょう。

つまり、自分の意見が通らないことも多いということです。

本来の目的は、自分の意見に賛同してもらうことであって、自分の意見を通さないことではありません。

もちろん、エンタメとして論破するというのは、コンテンツとしてはアリだと思います。

しかし、実生活やビジネスにおいて大切なのは、合意形成なんですよね。

何が言いたいかというと、合意が得られなければ論破しても意味が無いという話。

反対意見は悪いことなのか?

論破というのは、言ってしまえば反対意見の1つと言えます。

合意形成が目的とした場合、反対意見は悪いことなのか?というと、個人的には全然アリというか、むしろ反対意見が出ない方が怖いです。

プロジェクトを進めるにあたっては、様々な視点が必要になります。

1人の視点だけでは、正直難しいでしょう。

なので、反対意見というのは貴重ですし、大切だと自分は考えています。

目的を見失わないこと

反対意見があったとして、議論をするのは問題ないのですが、個人的にそもそも目的は何か?という点を忘れてはいけないのかなと思っています。

そもそも目的が合意できていなければ、その目的を合意することからはじめるべきです。

例えば、収益を上げたいのであれば、その目的を達成することに焦点を当てるということ。

逆に言えば、それ以外の議論は、意味をなしません。

収益を上げるためにAという計画があったとして、それに対する反対意見は、収益が上がらないという内容になるはずです。

収益が上がらない理由を明示できなければ、それは反対意見ではないと言えます。

なぜなら、目的は収益を上げることだからです。

代替案が必要な理由

結局、目的が明確であれば、Aという計画に反対するのではなく、Bという計画を提案するというのが正しいアプローチと言えるでしょう。

なぜなら、目的を達成することが重要だからです。

また、前述したようにAという計画に対して反対する意見は、意味をなしません。目的が達成できないからです。

意見があるとすれば、Aという計画を進めるにあたって、懸念点を挙げて、その対応策を述べることでしょう。

目的は収益を上げることであって、Aの計画に反対することではないからです。

だからAという計画が嫌ならば、代替案が必要になるというわけ。

そしてその代替案は、Aの計画よりも収益が高い、またはリスクが低いなど、Aよりもメリットがある計画である必要があります。

建設的な議論

ただ、往々にして、そのようになケースは少ないかなと。

それは上手く行かないみたいな反対意見が出て終わってしまうことが多いという話です。

それでは収益を上げるという目的を達成することはできません。

むしろ、収益を上げるという目的から遠のいていると言えるでしょう。

まさに意味のない議論になってしまうのかなと。

議論に価値をもたせるのであれば、やはり建設的な議論をする必要があるように思います。

それが前述したような代替案や対応策です。

もちろん、懸念点だけを挙げるのも、悪いことではありません。

ただそれは反対意見ではないという点に注意する必要があります。

Aという計画に合意し、対応策を考える前提で、懸念点を挙げるということです。

Aという計画を頓挫させるためではありません。

対応策については、当然ですが一緒に考えていくことになります。

結果として、対応策が無かった、対応策をしても収益が上がらないという結論になることもあるでしょう。

ただ、大切なことは、一緒に対応策を考えるということなのかなと。

同じ目的を見て、その目的を達成するために一緒に考え、行動することが重要という話。

そして、それが良い議論を生むのではないかと個人的には考えています。

建設的な意見をまとめる場が欲しいけど

で、本題というか、そういう建設的な議論を言って、それをまとめる場があったら良いのになあというのが、最近思っていることです。

これが結構難しいというか。

例えば、ブレインストーミングなどは1つの案です。

しかし、ブレインストーミングの場においても、まったくアイデアを出さない人や、1つのアイデアに固執する人がいます。

ブレインストーミングはどんなクソなアイデアであっても、荒唐無稽なアイデアであっても、アイデアを出すことが目的の場です。

それにも関わらず、人のアイデアを否定したりする人がいるんですよね。

そう考えると、建設的な議論ができる場というのは、究極的には作れないというか、参加者に依存するのかもしれません。

練習の場が必要なのかもしれない

個人的な希望的観測かもしれませんが、人間というのは何歳になっても変われる、成長できると思っています。

つまり、否定的な意見や論破しようとする人というのは、相手の意見を否定しないという議論の場をあまり経験していないことが無いからかもしれないなと。

ブレインストーミングやアイデアソンなどに何回も参加することで、否定しない議論の仕方を学べるということです。

最近、哲学対話というのを知り、哲学対話においても相手を否定しないというルールがあります。

なので、哲学対話も練習としては良い場なのかなと。

哲学対話については、結論を出さず、自身の考えや理解を深める、他の人の考えを知ることに重点を置いています。

また、意見がまとまっている必要もないのですし、聴くに徹するというのも許されています。

そういう意味で、哲学対話は建設的な議論をするための下地として、結構良いかもしれないなあと。

ブレインストーミングやアイデアソンの場合って、良いアイデアを出した人とか、たくさんアイデアを出す人が、歓迎されるというか、そこに評価が集まりやすいです。

なので、それよりももっと緩い感じの場の方が、良いのかもしれないなあと。それが哲学対話という話。

そんなことを思いました。

今後、プライベートではありますが、哲学対話を自分たちでも開いてみようかなと思ったりもしていて、良い結果が出ればそれも書いていく予定です。

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