評価・レビュー
☆4/5
「大学・中庸」は、朱子学で知られる朱子によって重要視され、もともとは『礼記』の一部であったものを抜き出したものです。
その内容を本文から引用すると、
『大学』は学問の目的・方法を簡潔に示し、学問の究極の目的として世界を平和にする政治を説きます。ただし、『大学』は「修己治人(己を修め人を治める)」の教えといわれるように、政治の前提に自己を修める道徳を置きます。いっぽう『中庸』は、「中庸」という実践道徳の基礎に天と人とを貫く「誠」を説きますが、その誠が世界を調和させる根本だといいます。つまり『大学』の政治学はその前提に個人の道徳を説き、中庸の道徳学はその展開として政治を説くのです。
という感じ。
「大学」「中庸」「論語」「孟子」は四書と言われ、儒教における重要なポジションにあります。
タイトルにビギナーズとある通り、補足の説明が非常に多いのが特徴。
中国古典は、日本語に訳されていても、結構難解なことも多いのですが、本書ではそのあたりはかなり理解しやすくなっています。
初めて「大学」「中庸」を読むなら良いかなと。
以下は、本文を引用した個人的なメモです。
推譲(すいじょう)という考え方
成人した金次郎が、荒れた農村を建てなおす事業のなかで村人にくりかえし説いたのが「推譲」、すなわち勤労と節制とによって生まれた余財(余裕の財力)を、独り占めせずに他者へすすめて譲ることです。みなが推譲しあうことが豊かで人間らしい社会の再建につながると考えたのです。
金次郎とは、二宮金次郎(二宮尊徳)のことです。薪を背負って本を読んでいる銅像が各地にあり、勤勉の象徴的な感じですね。
全然知らなかったのですが、二宮金次郎は経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献することで、それが自らに還元されるという報徳思想を中心に据えていたそうです。
その一つの例が「推譲(すいじょう)」ということ。
個人的にですが、この推譲という考え方は、今後の日本においてとても重要になるのではないかなと思いました。
少なくとも日本は、このまま増税路線で進めば、増税貧困が増えていくのは確実です。
本来は、そのような貧困層のために税金が使われるべきだと思っています。
それは国家・政府というのは、富の再分配によって多くの国民を豊かにするシステムだと個人的に考えているため。
しかし、現状では政治献金をした団体に、官公庁からお金が流れる仕組みになっていて、富の再分配ではなく、富の偏りを生んでいます。
人間にはお金が欲しい、権力が欲しいという欲望があるので、政治家や官僚たちにその欲望を節制せよと言ったとしても、改めることは難しいでしょう。
というか、すでにそれが結果として出ていて、それが今の現状です。
とすると、今後の日本社会においては、富んだ者と富まざる者の二極化が益々進むことになります。
これは小泉政権の時からの既定路線です。
なので、貧困層は今後益々政府から搾取され、厳しい生活を強いられますし、これまで中流と言われていた人々もどんどん貧困層へ転落させられていくでしょう。
そんな社会で、どうやって生きていくのか?
その答えの1つが、推譲かもしれないと思っています。
個人的には、地域よりも小さく、家族よりも大きい共助コミュニティの必要性を考えていますが、基本的な考え方は一緒です。
お互いに助け合う相互扶助ということ。
推譲は社会への貢献、還元が大切としていますが、この社会は全体的なものではなく、もっと小さい社会、個人的には共助コミュニティレベルが良いのかなと思っています。
顔の見えない人に貢献、還元するには、相当な人間力が必要かなと。
自分はそれほど人間力が高くないので、顔の見える、手が届く範囲の人々を大事にしたいと思っていて、それが共助コミュニティという話です。
心の中は滲み出てくる
心の中が誠実であれば外に現れる
実際に人間の顔というのは、DNAである程度決まっていますし、整形も普通になってきました。
また、服装だってオシャレにすれば、外見だけで人を判断するのが難しくなってきているのかなと。
なので、心の中の誠実さというのは、パット見の外見では判断しにくくなっている気がします。
ただ、その人の発言や行動は別かなと。
外見で判断しにくくなった分、今後は発言や行動がより重要視されてくると個人的には考えています。
個人的には、
- 謝罪しない人
- お金に汚い人
は、信用することはありません。
人間は間違いを犯す生き物というか、個人的に人間社会の発展は、間違いによって起きていると最近は考えているので、余計にミスや間違いは悪いことではない気がしています。
大切なのは、ミスや間違いを反省し、謝罪をし、そこから学びを得て、改善していくこと、次につなげていくこと、より社会を良くしていくことなんじゃないかなと。
また、お金に汚い人というのも個人的には信用していません。
具体的には、人からお金を騙し取ろうとする人です。
もちろん、それを謝罪して反省して、改善してくれるのであれば、個人的には問題ないと思っています。
ただ、多くの場合、言い訳をして謝ることをしません。というか、自分の人生において、お金に汚い人で、そのことを謝罪した人は見たことが無いです。
なので、この2つは共通している点はあるのかなと思っています。
大切なことは、見た目に騙されないようにすること。
ソクラテスの言葉に、
金持ちがどんなにその富を自慢しているとしても、彼がその富をどんなふうに使うかが判るまで、彼をほめてはいけない。
というのがあって、これもまさに同じことをかなと。
重要なのは、どのような行動をするか?という話。
嫌な上司を真似てはいけない
上司に対して嫌だと思ったことは、〔その時の心で部下の心を推し測って〕同じように部下を使ってはいけない。
この言葉を実践すれば、会社がどれだけ良くなることかと思ったりしました。
人に寄るのだと思いますが、自分がやられて嫌だと思ったことを、自分が上司になったときに、部下にするのは、一種歪んだ仕返しのようなもの。
それでは、嫌な気持ちがずっと連鎖していきます。なんかDVの連鎖のようですね。
その連鎖を断ち切ることが大切なんじゃないかなと。
自分が良いと思った上司の真似をする、または自分が良いと思っている上司のように行動すれば、会社はもっと居心地の良い場所になるのではないでしょうか。
民の心を失えば国滅ぶ
民衆の心を得たなら国を保持でき、民衆の心を失ったなら国を滅ぼすと言うのである。
ずっと昔から同じようなことを言われ続けているのに、なぜか、実践が難しい言葉です。
「民衆はわかっていない」という意見もあるでしょう。
しかし、それは上から目線すぎるのかなと個人的には思っています。
その一番の原因は、情報量の違いかなと。
政府内の情報って、すべてが公開されるわけではありません。
持っている情報が違っていれば、結論は変わってくるのが当然です。
なので、個人的には情報公開が重要だと思っています。
なぜ、政治家や官僚がその決断に至ったのかについて、情報をすべて公開するということです。
ただ、これが非常に難しい。
なぜならば、政治献金を貰っているからとか、キックバックがあるからとか、縁故だからとか、天下り先だからとか、そういう情報も公開しないといけないからです。
実は、政治家や官僚の施策に疑問が発生するのは、まさにこのことが原因だと個人的には思っています。
それが政治というものだという意見もあると思いますが、もうそろそろ私益ではなく、公益を考えた政治システムの構築が必要ではないでしょうか。
私益に走った政治は、過去の歴史を見ても明らかな通り、滅びの一途を辿っているのですから。
忠恕とは
自分が他者からされて望まないことは、他者にもしない〔これがすなわち忠恕の行為である〕
これは本当に基本中の基本なのかなと思います。
この基本が守られれば、社会において犯罪はほぼ起きないでしょう。
しかし、実際にはこれが難しいんですよね。
失言や失敗などはともかくとして、どうして犯罪をしてしまうのか。
本能的な部分に、自分の利益を拡大したいというものがあるのは、間違いありません。
子どもの頃というのは、特にそれが強いです。
けれど、大人になっても、その本能的なものが強いままというのは、本能が強すぎるのか、それとも理性が無いのか。
このあたりは、改めて調べたり、本を読んだりしてみようかなと思いました。
愛は弓を射るに似ている
愛は、弓を射るに似ている。なによりも、立場が正しくなければならない。愛は、弓を射るのに似ている。自分の矢がはずれたからといって、当てた隣人を怨むわけにはいかない。自分の未熟さを反省するよりほかはない。
これは『孟子』の一説を訳したものです(五十沢二郎訳)。
矢が当たらないのは、自分自身の未熟さであり、相手のせいにしてはいけないということ。
自分自身を高めることで、再び矢を射てば当たるかもしれません。
改めて自分自身への戒めとして。
善を知らずば誠実になれず
善を明確に知ることができないならば、自分自身を誠実にすることはできない
この言葉を読んで思うのは、そもそも善とは何か?という話。
個人的には、善悪の定義と考察〜善とは何か? 悪とは何か?で、
- 善とは社会の利益を追求する行動
- 悪とは個人の利益を追求し、結果として他者や社会に不利益をもたらす行動
と定義しています。
善については、人それぞれ考え方が違うとは思いますが、明確な定義が無いと、そもそも善なのかどうかの判別ができないですよね。
そして、善を明確に知るとは、個人的に定義することだと思っています。
もちろん、箇条書きで善の行動を書き連ねても良いですが、恐ろしい数があり、網羅的に、漏れなく記載するのは難しいかなと。
なので、やはり定義が必要ではないかなというのが個人的な見解です。
ただ、善を定義をして理解したとしても、誠実にはなれないかなと。
やはりその善に基づいて行動しなければいけないという話。
まあ、それがなかなか難しいのですが。誠実の道はまだまだ遠そうです。
と、他にもたくさんの学びがあり、個人的には面白く読むことができました。改めて機会を見て、他の方の訳書や説明を読んでみたいなと思います。
リンク
- 大学・中庸 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 (角川ソフィア文庫) Kindle版 矢羽野 隆男 (著)
- 中庸 – Wikipedia
- 大学 (書物) – Wikipedia
- 二宮尊徳 – Wikipedia
- 報徳思想 – Wikipedia