ユートピアかディストピアか──AI依存の行き先

投稿者: | 2025年11月21日
NovelJam2025 嵯峨景子賞
株式会社地獄 移住課 販売中!

書き殴った文章をAIに整理してもらった。

生成AIの進化と便利さの広がり

生成AIの発展は著しく、日常の会話やLINEの返信など、多くの場面でAIが活用されるようになってきた。便利な社会になった一方で、AIへの依存が増えている。

AI依存への個人的な違和感

AIに頼りすぎることへの懸念として、「人間が自ら考えなくなる」点が挙げられる。これは人間の退化というよりも、思考しない人間が為政者にとって都合が良くなるという観点からの懸念である。

言語能力の低下とその代償

AI使用により言語能力が低下する可能性はあるが、そのぶん他の分野に時間や能力を割けるため、人間として致命的なデメリットではないと考えられる。しかし、**「考えなくなること」**の方が大きな問題だと感じている。

最適解と人間らしさの乖離

AIは合理的で最適な回答を返すが、人間は合理性だけでなく非合理性や愚かさも併せ持つ存在である。こうした非合理性こそが人間らしさであり、AIに頼るほど失われていく恐れがある。

法や倫理における人間性の重要性

情状酌量や判例のない事件などでは、感情や状況、文脈が重要になる。AIは本質的に「最適解を予測する」仕組みであり、感情を理解しているわけではないため、人間的判断との差が生まれる可能性がある。

AI依存社会の行き先——ユートピアかディストピアか

AIに依存した社会が良いのか悪いのかは人間が判断すべきだが、その判断すらAIに委ねるようになると本末転倒である。AIの流れは止められないが、その中で「自分の考え」や「自分とは何か」を持ち続けることが重要だと感じている。

自分で考える機会としての哲学対話

近年、日本でも哲学対話が広まりつつある。AI時代において「自分で考える」場として、今後さらに重要性が高まるかもしれない。

以下、AIにまとめて貰う前の原文

最近、生成AIの進化が凄まじい。

会話については、ほぼAIで問題ないレベルになってきていると思います。

で、LINEの返信などにAIを使っている人も多いようです。

便利な世の中になりましたね。

あくまで個人的にですが、AIに頼りすぎるのは、どうなのかなというのはあります。

端的に言えば、AIが全部返信考えてくれるということは、人間が考えなくなるからです。

で、それは人間の退化を生むという話ではなくて、考えなくなった人間は、為政者にとって都合が良いなという話。

AIによって、確かに言語能力とかは下がるかもしれませんが、その分、他の能力がアップしたり、他のことに時間が使えるようになるので、個人的には人間としてのデメリットはそれほど無いのかなと。

言語能力よりも、やはり考えることが減ることの方が、デメリットが大きい気がしています。

何でもAIに聞くということは、最適解でしょう。

しかし、世の中、最適解が正しいとは限らないという話。

例えば、人間が合理的であれば(いわゆる行動経済学でいうところの経済人みたいな)、きっと問題は起きないでしょう。

ところが人間は、合理的な面と非合理的な面があって、愚かなこともしてしまいます。

それこそが、人間らしさなんじゃないかなと。

で、AIに聞いた最適解は、合理的な回答になるので、そういう人間らしさが減っていく気がしているのです。

杞憂であればよいですが。

愚かなこと以外にも、情状酌量とかがそうですね。

また、判例の無い事件なども、人間の心情とか、感情とか、その時のコンテキストが大事だったりします。

最適解を求めるということは、杓子定規に法に照らし合わせるということで、そのあたりで人間とAIの回答に乖離はでるんじゃないかなあと。

まあ、そこまで予測した上で、AIが回答をするように設定をすれば良いという話でもありますが。

ただ、今の生成AIは、あくまで次にくる言葉の予測の最適解なので、人間の感情を考えているわけではないんですよね。

そこがたぶん、個人的には気になっているところです。

で、AIに依存するということは、そういう人間の感情、愚かしさ、人間らしさを削っていくということでもあって、そういう社会も、個人的には悪くはないと思っています。

むしろ、そういう社会の方が、多くの人にとっては良いのかもしれません。

知らず知らず、いつの間にかAIに依存した社会。

それはディストピアなのか、ユートピアなのか。

それを判断するのは人間だと思いたいのですが、結局、それもAIに聞くとなると、なんだか本末転倒な気もしたりして。

今の流れというのは、どうやっても止めようが無いので、僕たちは、AIという濁流に飲み込まれていくわけですが、その中で、自分というのものは、自分の立ち位置だったり、自分の考えというのは、ある程度持っておきたいかなと。

そこに固執する必要は無いですが、少なくとも、自分とは何か?ということぐらいは、自分自身で考えたい気もしています。

最近、哲学対話というのが徐々に日本でも浸透してきています。

哲学対話は、まさに考えることがメイン。

そういう機会が、今後、もっと求められるのかもしれないなと思いました。

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