
相手をコントロールしたい、自分の思う通りに動いて欲しい。
そのような欲望はもしかすると、誰しもが持っているものなのかもしれない。
しかし、相手を完全にコントロールすることはできない。
それは、行動の面でも、心情の面でも。
特に、心については、表向き従っているようでも、実際にはどうかわからない。
そもそも、相手をコントロールして、一体何がしたいのか。
相手を支配することが目的なのか。
相手をコントロールしようとした時点で、相手との間の対等な関係性は、完全に破壊される。
一度、対等な関係性が破壊されると、もはや修復は難しい。
そうなると、お互いの関係性によって得られていたメリットを大きく失う。
このメリットは、協力によってより大きなことができる、または助け合いができるという、協調、または相互補助、補完的なものだ。
あくまで、相互にメリットが発生することが、対等な関係性でもたらされると言える。
それが、相互で無くなった場合、一方的な搾取となる。
そうなると、関係はいつか限界を迎えることになるだろう。
なぜなら、搾取は、いつか枯渇するからだ。
だから、相手をコントロールしようとするのは、最終的にデメリットが大きいと言える。
折角作り上げた関係性を破壊することになるからだ。
それにも関わらず、なぜか、世の中には、相手を完全にコントロールしたがる人たちが多い。
数多の書籍や様々な情報があるが、どんなものであっても、相手を完全にコントロールできると述べているものは無い。
周知の事実のはずなのに、なぜか、その事実を受け入れることができない。
それはなぜなのか?
単純に情報が、知識が不足しているからだろうか。
それとも、本能的なものが理性的なものを上回る、つまり、欲望に負けているということなのか。
もしかすると、コミュニケーションの仕方を知らないのかもしれない。
そのあたりについては、実際に当事者に話を聞いてみたいというのはある。
結局、何が言いたいのかというと、人間関係において、相手に何かを要求して、相手を無理やりコントロールすることはできないということだ。
相手が動くには、何かエサが必要で、さらに、本人がやる気を出さなければ意味がない。
強制的に何かをさせようとしても無理なのだ。
自分にできることは、自分はどうしたいか?だけなのだと思う。
アドバイスを求められたとしても、あくまで、自分だったらこうするぐらいしか言えない。
そもそも、自分のアドバイスに従って、うまくいかなかったときに、その責を問われる可能性もある。
いわゆる、他責思考だ。
だから、自分にできるのは、やはり自分はどうしたいか?だけなのだろう。
対人関係において、相手に何かを要求するというのは、そもそもコミュニケーションの取り方として、あまり良くないということ。
お願いや依頼はあるだろう。
しかし、要求はちょっと違う。
このあたりは、言葉のニュアンスの問題もあるかもしれない。
ここでの要求とは、相手を強制的にコントロールしようと迫ること。
そして、友人にしろ、恋人にしろ、夫婦にしろ、どちらかが要求をはじめたら、その時点で、その関係性は終わりなのだろう。
対等な関係ではなくなるから。
そもそも相手のことが好きであるならば、要求することは無いだろう。
要求した時点で、力関係がはっきりし、上下関係ができてしまうからだ。
とてもシンプルな話のように思う。
しかし、それがたぶん、理解できないのだ。
人間関係は対等であるときが一番良好であるということが、おそらくわかっていない。
自分が得することが、自分が上であることが、良好な人間関係だと思っているのだろう。
しかし、上下関係ができた時点で、相手は真意を見せることはなくなる。
あくまで表面上だけ合わせる存在になる。
もはやそれは、AIに近い存在にとも言えるのではないだろうか。
表面上だけ、コミュニケーションは取れているけれど、そこに、意思はない。感情もない。
だから、それは人間関係ではなく、人間と道具の関係に近いようにも思える。
そのような状態が良ければ、それはそれでその人にとっては幸せなのだろう。
けれど、実際に望んでいることは、そのようなソリッドなものなのか。
表面上だけ、調子を合わせるだけの道具なのか。
それは、改めて考えてみてみるのも良いのではないだろうか。