
格差社会、格差社会と言われて久しい。
では、この格差社会の格差って何だろう?と思う。
単純に所得や資産、つまり貧富の差なら、それを平等にすればオッケーということだろうか。
であるならば、金持ちからお金と資産を奪って、国民に分け与えれば問題は解決する。
反対する人もいるだろうが、日本は民主主義だ。
圧倒的に金持ちではない人の方が多い。
多数決で、簡単に格差を埋めるシステムを導入し、格差を埋めることはできるだろう。
しかし、それをしないのはなぜか?
結局、格差社会、格差社会と言っても、格差を容認している、というか、格差があって当たり前だと多くの人が思っているからだろう。
そもそも有史以来、格差はずっと存在している。
我々は、様々な古典を知っている。歴史を知っている。
しかし、それらは、言ってしまえば、格差で言えば上位の人たちが作り上げたものだ。
本当は格差があったけれど、地べたを這いつくばっている人たちの話は出てこない。
そして、今現在もそうだ。
格差があるから、様々なものが生み出されている。
新しいテクノロジー、新しいサービスだって、格差によって生まれているものだ。
全員横並びの社会では、新しいテクノロジーやサービスは生まれなかっただろう。
言ってしまえば、格差こそが、人間のモチベーションになっているのではないか?ということだ。
格差が大きくなれば、社会が不安定になり〜みたいな言説もある。
不安定になって、耐えきれなくなれば、暴動が起きるし、革命が起きる。
ただ、それだけのこと。
結局、政府や権力者がそのバランス調整を間違えたというだけのことだ。
過去の歴史を見てもそうだろう。
国や王朝が崩壊するときは、そのバランスが崩れたときで、その時の為政者や権力者は、無能とこき下ろされる。
ただ、それだけ。
格差社会で問題になっていることの1つに、教育格差というものがある。
お金を持っている家庭の方が、教育環境が整っていて、良い大学に行けるという話だ。
確かにそうだろう。
でも、これも結局は一緒だ。
本来、能力が無いものが、為政者や権力者になれば、バランスが崩れる。
そして、それを容認しているだけにすぎない。
社会が崩壊すれば、結局、為政者や権力者が問題だったというだけ。
過去の歴史を見れば、それは明らかだ。
二世三世が無能だったという歴史は枚挙にいとまがない。
多くの人が知っていること。
ただ、それだけ。
歴史書に、ただ、愚かな人物として、記録されるだけなのだ。
それよりも、自分たちの欲望、つまり、自分の子どもを為政者や権力者にしたいという思いが優っただけ。
人間だもの。
そういう愚かなことをするのは、当たり前なのだ。
結局、何が言いたいのかといえば、格差社会が問題だと言っても、格差を是正したいと思っている人は少なくて、多くの人間は格差を作ることに勤しんでいるという話。
格差を本気で無くそうと思えば、その実行はそれほど難しくはないということ。
また、格差を無くそうとした場合、金持ちなどが海外に逃げると言われたりする。
個人的には、それで良いんじゃないかなって思ったりもしている。
なぜなら、そういう人たちは、格差があることが是と考えている人たちで、言ってしまえば、本質的には他者を見下しているからだ。
そういう人たちがいない社会の方が優しい社会になるではないか。
皆、口々に差別反対とのたまっているのだから、そういう格差を是とする人たちを擁護するような人はいないだろう。
優秀な人がいなくなるという話もあろう。
しかし、格差によって、まともな教育を受けられなかった才能ある人間も多数いる。
そう考えれば、差し引きゼロではないか。
才能のある人間がいなくなった分、新しい才能のある人がでてくる。
それが格差を無くした社会のメリットだろう。
モチベーションが無くなるという人もいるだろう。
であるならば、貧富の格差以外の報酬があればどうか?
例えば、名誉などだ。
そうなのだ、格差が無い社会は作れるのだ。
問題もいろいろと発生するだろうが、そもそも、今の社会だって問題だらけだ。
どっちの問題を取るかという話。
富において、平等な社会か、不平等な社会か。
どちらを選ぶかは我々が決めること。
納得できない人は、海外に行けば良い。
それだけの話。
けれど、多くの人は、今の社会を選ぶだろう。
やっぱりみんな格差が好きなのだ。
誰かよりも上であることを認識することで、安心するのかもしれない。
それは、さながら士農工商のようなものなのだろう。
そうやって、安心したいのかもしれない。
何が言いたいのかというと、格差社会ってのは問題ではなくて、みんな格差を望んでいるということ。