熱力学第二法則(エントロピー増大法則)が世界の真理で神なら、一様になることが絶対的な善ではないか

投稿者: | 2025年9月22日

絶対的な善悪は存在しないと言ってきたが、あえて絶対的な善悪について、考えてみるのも悪くないなと思い、いろいろと考えてみる。

まず、絶対的なという点は、共通認識、万物普遍、不変である必要がある。

人間が存在しようとも、存在しなかったとしても成立する必要があるということだ。

つまり、絶対的な善とは、社会規範とは異なる、道徳とも異なる、倫理でもないことになる。

なぜなら、それらは人間が存在することが前提だからだ。

そして、言葉で説明されている時点で、絶対的では無い。

朽ちる。

消える。

そもそも、絶対的な善は、我々の概念の外にあるのだから、枠の中で表現できること自体、おかしいのではないか。

では、どうやって絶対的な善悪を定義するのか。

世界の法則は、世界が誕生した瞬間に生まれた。

その法則こそが、絶対的なものではないだろうか。

言ってしまえば、様々な方程式は、世界の真理、正確には我々が存在している宇宙の真理と言える。

人間が存在しようとしまいと、その法則は成り立っているからだ。

我々は、成り立っている法則を発見し、それを人間がわかる形で表現しているにすぎない。

世界をかたどった方程式こそ絶対的なものであると言えよう。

ところがである、これらの法則には問題点がある。

それは、マルチバースの可能性だ。

前述したように、今、形作られている方程式は、我々が存在している宇宙において成立する。

マルチバースが正しければ、宇宙は他にも存在し、そこでは方程式が成り立つかどうかはわからない。

つまり、我々の世界とは、異なるものでできている可能性があるのだ。

そうなると、方程式は絶対ではない可能性がある。

しかし、1つだけ、世界を成立させるのに必要な方程式が存在すると自分は考えている。

それが、熱力学第二法則だ。

温かいコーヒーは冷めるというやつ。エントロピーの増大法則だ。

実は、このエントロピーの増大法則こそ、時間を生み出している法則であることがわかってきつつある。

他の方程式は、言ってしまえば、時間のパラメータこそあれ、マイナスの時間を表現できる。

しかし、熱力学第二法則(エントロピー増大法則)については、不可逆なのだ。

そう考えると、熱力学第二法則(エントロピー増大法則)こそが、真理というか、神である可能性が高い。

熱力学第二法則(エントロピー増大法則)が無ければ、我々の世界は存在しないというわけではない。

ただ、時間概念が無ければ、あらゆる状態が重なって存在することになり、実質、それは世界と言えるとは思えない。

なぜなら、何もない状態も重なっている必要があり、何もない状態に何を加えても何もない状態を維持する必要があるからだ。

0に何をかけても0みたいな感じ。

e=mc^2のcは一定であるが、別にその数字がいくつであっても、世界は成立する。

正確に言えば、その数値に合わせた世界が生み出される。

しかし、熱力学第二法則(エントロピー増大法則)が無ければ、世界は成立しないのだ。

最近、熱力学第二法則の綻びが見つかったというニュースがあったが、それは一部を取り出した場合で、全体としてはやはり成立してしまうという。

やはり、熱力学第二法則(エントロピー増大法則)が真理というか、世界の基礎、世界を作っている神である可能性が高い。

そして、熱力学第二法則(エントロピー増大法則)が真理で神であるならば、それこそが善そのものではないのだろうか。

つまり、熱力学第二法則(エントロピー増大法則)によって起きることが、絶対的な善という考え方である。

それ以外は、悪なのか、それとも、善でも悪でもないものなのかは、また別途考えるとして、少なくとも世界が続いていくためには、我々が存在するためには、この絶対的な善が必要不可欠であることは間違いない。

そして、熱力学第二法則(エントロピー増大法則)によって起きることとは、最終的にすべては一様になっていくということ。

つまり、絶対的な善とは、一様になっていくことそのものではないだろうか。

これは表現が難しい。

というのも、表現できてしまうと、その時点で世界の内側になってしまうからだ。

だから、もしかすると、何が別の形なのかもしれない。

ただ、1つだけ言えることがある。

それは、熱力学第二法則(エントロピー増大法則)によって引き起こされる現象そのものが絶対的な善であるということ。

結果として、雑然さ、一様になっていくというだけ。

そして、今、我々の社会を見ていくと、何となくそういう方向性に向かっているような気がしている。

最終的に人間の個というものが、無くなっていくのではないかと思えてならない。

そういう方向性に行くことが正しいように、皆が感じているというか。

格差を無くす、差別を無くすなども、そういう方向性な気がする。

様々な理由が並べ立てられているけれど、結局は雑然さ、一様になっていくことが善いと人間は感じているのではないだろうか。

理想的な社会をイメージしてみてほしい。

それは、個々人に差がある社会だろうか?

それとも、平等であり、公平である社会だろうか?

その社会で、個人というものは、どれほどフォーカスされているのだろうか?

AI自体はどうだろう?

AIに個性は求められているのだろうか?

そんなことをふと思ったりしました。